2025年5月19日月曜日

プルドン『経済的諸矛盾の体系』と大預言者イェルミヤウの見た「寝ずの番の棒きれ」と1848年革命|俗語半解

プルドン『経済的諸矛盾の体系』と大預言者イェルミヤウの見た「寝ずの番の棒きれ」と1848年革命|俗語半解

プルドン『経済的諸矛盾の体系』と大預言者イェルミヤウの見た「寝ずの番の棒きれ」と1848年革命

 ピエール・ジョゼフ・プルドン(Pierre Joseph Proudhon、1809年1月15日~1865年1月19日)著『経済的諸矛盾の体系あるいは貧困の哲学』Système des contradictions économiques ou Philosophie de la misère(1846)の1848年革命を予言した個所を、河野健二(かわの・けんじ、1916年11月25日~1996年8月10日)編、阪上孝(さかがみ・たかし、1939年5月 ~)訳『プルードン・セレクション』(平凡社ライブラリー、2009)から引用します(207~208頁)。

こうして労働と特権のあいだの調停者の役割を果たすために、社会のなかでつくりだされた集合力の機関である権力は、不可避的に資本と結びつき、プロレタリアートに反対することになる。いかなる政治改革もこの矛盾を解決できない。なぜなら政治家たち自身が認めるように、このような改革は結局のところ権力により多くの力と拡張をもたらすにすぎず、また階層秩序をひっくり返し社会を解体するのでなければ、権力は独占の諸特権に手をふれることはできないからである。したがって労働者階級にとっての問題は、権力と独占を奪い取る(conquérir)ことではなくて、それらに一挙に打ち勝つ(vaincre)ことである。ということは、民衆の心の底、労働の深みから、資本と国家を包みこみ、それらを制御する、より大きな権威、より強力な事実を出現させることを意味する。こうした条件をまったく満足させない改革提案はすべて、一層の災厄、予言者の言うプロレタリアートを脅かす見張り番の笞でしかない。

 同じ箇所を、プルードン著、山本光久(1950年~)訳『革命の告白』(作品社、2003)の引用箇所より再引用します(187~188頁)。

権力――資本と労働の間を媒介すべく社会の中に作られた集団支配のこの道具は、宿命的に資本と結びつき、プロレタリアに背くのである。この矛盾は、いかなる政治改革でも解決することはできない。なぜなら、政治家自身の認めるところによれば、そのような改革はさらなる活力と拡大を権力に付与することにしかならないだろうし、また、ヒエラルキーを覆し、社会を解体しなければ、権力は占有の諸特権に達することはできないからだ。それゆえ、労働者階級にとっての問題は、権力と占有とを同時に勝ち取る[vaincre うばいとる]ことではなく、克服する[conquérir のりこえる]ことなのであり、これは、人民の内奥から、労働の深みから、さらに大きな活動力を、資本と国家を包み込み、それらを支配するようなさらに力強い行為を生み出すことを意味する。この条件を何ら満たさぬような改革案はすべて、さらなる災いの種、ある予言者が言ったように、プロレタリアを脅かす〈衛兵の鞭〉でしかない。

 それぞれ「勝つ」という意味をもつ"vaincre"と"conquérir"のこの文脈での対比の意味、最後のラティーナ語引用箇所がよくわからないので、『ある革命家の告白』Les Confessions d'un révolutionnaire(1849)より『経済的諸矛盾』引用箇所を試訳と共に引用します。

権力、すなわち労働と資本の間をとりもつ媒介者の役割を果たすべく社会の中に作り出された集合的力能の道具は、宿命的に資本に縛りつけられ、無産者に対立している。どんな政治改革もこの矛盾を解消できないが、というのも、政治家自身が認めるように、そうした改革は結局、権力にさらなる活力と拡大をもたらすことにしかならず、また、階層秩序を覆し、社会を解体しないかぎり、権力は占有の諸特権に手をつけられないからだ。そこで、労働者階級にとっての問題は、権力と占有とを同時に強奪すること[conquérir]ではなく、打倒すること[vaincre]であり、つまり、人民のはらわたの中から、労働の深みから、より大きなひとつの活動を、資本と国家を封じ込め従属させる、より強力な事実を出現させることだ。この条件を何ら満たさない改革の提案のすべては、さらなる悩みの種、ある預言者が述べた、無産者に将来を怖がらせる「寝ずの番の棒きれ」、ヴィルガム・ヴィジランテム(virgam vigilantem)でしかない。
 Le pouvoir, instrument de la puissance collective, créé dans la société pour servir de médiateur entre le travail et le capital, se trouve enchaîné fatalement au capital et dirigé contre le prolétariat. Nulle réforme politique ne peut résoudre cette contradiction, puisque, de l'aveu des politiques eux-mêmes, une pareille réforme n'aboutirait qu'à donner plus d'énergie et d'extension au pouvoir, et qu'à moins de renverser la hiérarchie et de dissoudre la société, le pouvoir ne saurait toucher aux prérogatives du monopole. Le problème consiste donc, pour les classes travailleuses, non à conquérir, mais à vaincre tout à la fois le pouvoir et le monopole, ce qui veut dire à faire surgir des entrailles du peuple, des profondeurs du travail, une activité plus grande, un fait plus puissant qui enveloppe le capital et l'État et qui les subjugue. Toute proposition de réforme qui ne satisfait point à cette condition n'est qu'un fléau de plus, une verge en sentinelle, virgam vigilantem, disait un prophète, qui menace le prolétariat.

訳注:「ある預言者(un prophète)」とはイヴリートゥ語聖書に出てくる大預言者イェルミヤウ(エレミヤ、ラティーナ語では「ジェレミアス(Jeremias)」、フランセ語では「ジェレミー(Jérémie)」)のことです。
 『イェルミヤウの書』第1章で、主はイェルミヤウに「何を見ているのか」と問い、イェルミヤウは「アーモンド(見張り)の棒きれを見ています(virgam vigilantem video、ヴィルガム・ヴィジランテム・ヴィデオ)」と答えます。すると主は「よく見たものだ。私の言葉を実現しようと私は見張っているからだ」と言います。
  ここの語呂合わせ的なつながりは、イヴリートゥ語の知識がないとわかりませんが、「アーモンド」にあたる「シャーケードゥ」と「寝ずに見張っている」にあたる「ショーケードゥ」は音が似ています。
  「ヴィルガム・ヴィジランテム」は「見張る棒きれ」とも解釈され、「ヴィルガム・ヴィジランテム・ヴィデオ」は、フランセ語では「私は見張る棒きれを見ています(Je vois une verge qui veille)」とも訳されます。
  イスラエル人が味わう災厄についてのイェルミヤウの不吉な預言は実現し、イスラエルの民衆は捕虜としてバービリ(バビロン)に連行され、移住を強いられました。

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