大化の改新はなかった!?
              
  (問1)日本の歴史で「大化の改新」があった、と初めてとりあげられたのは、次のうち何時代だったと
      思いますか?
  
           ア)奈良時代  イ)鎌倉時代  ウ)室町時代  エ)江戸時代  オ)明治時代
  
                               (問1の答へ)
  
  ○基本方針の謎
  大化の改新の際に出された基本方針である、いわゆる「改新の詔(ミコトノリ)」の添え書きと718年に出された
  「養老令」という律令の法令集とは、非常によく似た部分があります。例えば前者の二(京・地方の行政組織の
  整備)には「その郡司(こほりのみやつこ)には、ならびに国造(くにのみやつこ)の性識清廉(ひととなりたましい
  いさぎよ)くして、時の務(まつりごと)に堪(た)ふる者を取りて、大領(こほりのみやつこ)・少領(すけのみやつ
  こ)とし、強(こは)くいさをしく聡敏(さと)くして、書算(てかきかずとる)に工(たくみ)なる者を主政(まつりごとひ
  と)・主帳(ふひと)とせよ」とあるのに対して、後者では「およそ郡司には、性識清廉(しょうしきしれん)にして、
  時の務(つとめ)に堪へたらむ者(ひと)を取りて、大領・少領とせよ。強(こは)く幹(つよ)く聡敏にして、書計に
  工ならむ者を、主政・主帳とせよ。それ大領には外従八位上、少領には外従八位下に叙せよ。それ大領・少領、
  才用(ざいよう)同じくは、まず国造(こくぞう)を取れ」とあります。
  
  (問2)常識的に考えて、どちらがどちらのマネをしたのでしょうか?
  
                                (問2の答へ)
  
  (問3)ところが、問2の答は正反対なのです。その理由を次の史料と上の2つの法から考えて下さい。
   <木簡(墨で文字を書いた木札。地方からの貢進物や役所間の連絡に用いた)>
      己亥年十月上挟(かずさ)国阿波評松里   (藤原宮址出土)
    (699年)
  <ヒント>地方行政単位に注目
  
                                (問3の答へ)
  
  (問4)以上のことから「大化の改新」はなかったと言えるでしょうか?またその理由は?
  
                                
  
  (問5)(問4)と正反対のことは考えられないでしょうか?理由も考えて下さい。
  
                                (問5の答へ)
  
  ○『日本書紀』が伝えるクーデター前後の事情
  皇極天皇のとき、蘇我入鹿は自らの手に権力を集中しようと、有力な皇位継承候補者の1人山背大兄王(やま
  しろおおえのおう)を殺した。こうした中、唐帰りの留学生の話を聞いて、豪族がそれぞれ私地・私民を支配し、
  朝廷の職務を世襲するという従来の体制を改め、唐にならった新しい国家体制をうちたてようとした中臣鎌足は、
  中大兄皇子とはかり、645年、蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼした。そして孝徳天皇が即位し、中大兄皇子は皇太
  子となって新しい政府をつくり、国政改革に乗り出した。
  
  (問6)しかし、先入観を取り払ってもう1度上の文章を読んでください。中大兄皇子に関して、何か疑問
      はないでしょうか?
  <ヒント>文章の後半に注目
  
                                (問6の答へ)
  
  (問7)このクーデターの、本当の中心人物は誰でしょうか?
  <ヒント>推理小説のように、このことで最も得をした人物を探してください。
  
                                (問7の答へ)
  
  ◎答と解説
  (問1)エとオが正解です。幕末の1848年に伊達千広という学者(陸奥宗光の父)が「大勢三転考」という本を著
  し、明治に入った1873年に刊行されました。この中で初めて「聖徳太子の理想を実現したのは孝徳天皇の時」
  と論じたのです。逆に言えば、それ以前は「大化の改新」として歴史学の上で大きくとりあげられてはいなかった
  ことになります。
  
                                  (次へ)
  
  (問2)これは当然、時代が後である養老令の方が改新の詔をマネしたことになります。
  
                                  (次へ)
  
  (問3)「郡評論争」というのをお聞きになったことがある方がいらっしゃると思います。つまり、718年の養老令より
  前の699年の木簡に「国」の下の地方行政単位として「評」があるのに、646年の改新の詔に「郡」とあるのはお
  かしいはずです。
  
                                  (次へ)
  
  (問4)素直に考えれば、この詔自体が後世、つまり養老令以降の時期につくられたもの、つまり「にせもの」と
  いうことになりますから、改新自体もなかった、ということになります。
  
                                  (次へ)
  
  (問5)いや、改新自体はあったかもしれません。つまり、「郡」とあるからといって、詔自体がまったく存在しなか
  ったというふうに考えなくてもいいわけで、本来「評」とあったものをそこだけ後に「郡」と書き換えて『日本書紀』
  に載せたかも知れないのです。
  
                                  (次へ)
  
  (問6)このクーデターの中心人物が中大兄皇子だったとしたら、なぜ皇子はすぐに天皇に即位せず、皇太子
  として政治をとったか?という疑問が残ります。
  
                                  (次へ)
  
  (問7)単純に考えて、天皇に即位できた軽皇子(かるのみこ)、つまり孝徳天皇、ということになります。
  舒明(じょめい)天皇の死後の有力皇位継承候補者は次のとおりです。
      欽明ーーー敏達ーー押坂彦人大兄ーーーー舒明ーーーーー古人大兄
           │                  │          │ー中大兄
           │                  │
           │                   │ー茅渟ーーーーー皇極・斉明
           │                             │ー軽(孝徳)
           │ー用明ーー厩戸(聖徳太子)ーー山背大兄
           │ー崇峻
           │ー推古
  
   ①山背大兄:最年長。血統も問題なし。
   ②軽:皇極の同母弟。本来舒明の子の世代だが、姉皇極が舒明の妃となったので、舒明と同世代の扱い
          となる。
   ③古人大兄:舒明の皇子。蘇我馬子の娘を母にもつ。蘇我氏にとっての切り札。舒明の子の世代では最
           年長。
   ④中大兄:舒明と皇極の子で血統がいい。しかし当時16才で、必ずしも最有力候補ということではなく、諸
          豪族の支持も「遠い将来の即位」を認める程度。
  
  このうち、①の山背大兄は、③の古人大兄を擁する蘇我入鹿を中心とした勢力に②~④の皇子自身も加わ
  って643年に滅ぼした。
  また、クーデターに参加した中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂、阿部内臣麻呂らは、中大兄皇子より軽皇子との
  関係の方が強い可能性があるのです。そしてこのクーデターの本質は、史上初の皇極から孝徳への譲位の実
  現(それまでは天皇の代替わりに必ず争いがあった)を意味する、という考え方があります。
  
  ※これらの問題と答、解説は加藤公明『わくわく論争!考える日本史授業』(地歴社、1991年)、遠山美都男
  『大化改新』(中公新書、1993年)などを参考に作成しました。改新における中大兄皇子の立場を従来より軽く
  みて、かわりに軽皇子の立場を重視する遠山説は、未だ学界で広く承認されているものではありません。しかし
  これまで固定的にとらえられてきたこの宮廷革命の性格をもっと多面的に見る必要があり、、また加藤氏が木簡
  を用いることで、大化改新を生徒たちに衝撃的にとらえ直させる見事な授業をなされたこととうまく結びつくと判断
  したため、このように教材化してみました。
  
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