天孫降臨 Vol.徳島県南部
『古事記』天孫降臨に、
「故爾詔天津日子番能邇邇藝命而 離天之石位 押分天之八重多那此二字以音雲而 伊都能知和岐知和岐弖自伊以下十字以音 於天浮橋 宇岐士摩理 蘇理多多斯弖自宇以下十一字亦以音 天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣自久以下六字以音 故爾天忍日命 天津久米命 二人 取負天之石靭 取佩頭椎之大刀 取持天之波士弓 手挾天之眞鹿兒矢 立御前而仕奉」
「さてそこで、天つ神に命じられたホノニニギは、高天原の岩座を離れ、天に八重にたなびく雲を押し分け、堂々と道をかき分けかき分けて天の浮き橋に立ち、そこから筑紫の日向の、高千穂の峰に天降りされた。
そのとき天忍日命(アメノオシヒ)、天津久米命(アマツクメ)の二人は立派な靫を背負い、頭椎の太刀を腰に着け、櫨弓を持ち、真鹿児矢を持って、ホノニニギの先に立ってお仕えした。」
…古事記現代訳をみても、この「久士布流多氣(くしふるたけ)」については比定が難しくよく分からないみたいで、多くの翻訳サイトをみても殆ど訳されていないようです。
この「久士布流多氣」なのですが、
邪馬台国四国山上説の大杉博氏は、「髪(くし)のように降る滝」と訳され、恐らく友内山の鳴滝(つるぎ町貞光成谷)に比定しておられるようです。
この滝の上から太陽が昇った様を「槵日(くしひ)」が差し込める珍しい自然の造形の形容であるとしておられるようです。
この場合の天孫降臨のルートは三里四方の霊地とされている友内山から舞中島へ向かうコースとなります。
◆鳴滝
◆大杉博氏説天孫降臨ルート
しかし、太陽は時間や季節により角度や位置が変わってしまう上、久士布流多氣の「氣」の音読を「キ」と読まれています。
例えば、神名である「大気都比売」の読みは「オオゲツヒメ」で、「気」は「ケ」と読みます。
つまりこの場合は通説通り、「ケ」と読み、「クシフルタケ」であると思われるのです。
次に、「記・紀の説話は阿波に実在した」の著者髙木隆弘氏は、高千穂は、阿波三山の一つ阿南市にある津乃峰山とし、くじふる嶺(たけ)はその西側にある阿南市内原町櫛ヶ谷であると比定しておられます。
「韓国に向かい」の韓国は伊島のこととし、阿波志に「国初獲す所韓人を放つ其英裔分かれて四十八戸と為る血相多し」とあり、伊島は漂着民の郷であったという伝承が残っている。
また、「笠沙の御前」は蒲生田岬の東沖の伊島の対岸の和歌山県日の岬とを結ぶ海の形状を笠に例えたもので、「槵日(くしひ)」は、太陽が津乃峰山に遮られた時に櫛状になる情景で、二上峰・添山(そおりやま)とは二つの峯がある山のこととしています。
◆髙木隆弘氏説の天孫降臨地
その他にも「日向」の宮崎県や「筑紫」である福岡県の説もバリエーション豊富で、多士済々の比定考察をされておられるようです。(基本は高山に比定される方が多い)
では、徳島県南部に天孫降臨をしたのであればどのようなルートであったのでしょうか。(※これより私説となりますのでご注意ください)
剣山、美馬市木屋平と隣接する那賀郡那賀町「岩倉」
「離 天之石位」、この地より離れたニニギ達一向は、まずは坂州木頭川沿いに降り、「伊都能知和岐知和岐弖」=道別に道別きて来たのでしょう。
「天の八衢」となる那賀町「出合」で猿田彦命と遭遇します。
これより猿田彦命の案内を受けます。
この「出合」にある神明神社を境に、北にニニギを祀る白人神社、南の集落地である平谷地区に「御所谷」の地名が見えます。
また、平谷八幡神社例大祭は奇祭としても有名。
ハコ、ヒゲと呼ばれる独特の白塗り化粧した若連が神輿を、鼻高と天狗がそれ等を先導します。
◆乙女の舞
天の八衢の"やちまた"とは「方々へ行く道の分岐点」のこと。
ここが天孫降臨の途中にある「宇岐士摩」(うきじま)と予想。
高山地ではあまり見られない地形です。
現在の出合橋付近に浮橋(かずら橋のような原初の橋)が架かっていたのではないでしょうか。
那賀町平谷(旧海部郡中木頭村)から那賀川支流に沿って海川(かいかわ)へ抜け、今度は一気に南下。
とんでもないような道ですが、往古より古道が残ります。
霧越峠を越えるいわゆる現在の酷道国道193号線(土佐中街道)です(´・ω・`)
険しき道を通った様子を『日本書紀』には次にように記されています。
「而膂宍之空國、自頓丘覓國行去、頓丘」
「膂宍(そしし)の空国(むなくに)を頓丘(ひたお)から国覓(くにま)ぎ行去(とお)り」
「膂」:背骨、「宍」:肉=背筋 (せすじ) の肉。
背中には肉が少ないことから肥沃でない土地の意。
この「膂宍の空国」は、「紀」の仲哀天皇条でも出現しており、
詔群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰「天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。…云々
仲哀天皇が熊襲(くまそ)を討とうと考えたが、神は、神功皇后に神懸かりして言う。「天皇、何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや」
…とあり、熊襲は痩せて取るに値しない国であるので新羅を討つべきだと言う。とあります。
つまり、なーーんもない痩せた不毛の地(国)を通らざるを得なかったということでしょう。
場所としては海川から小川辺りまでのココと推測
本当に険しく何にも無いところです(´・ω・`)…
そして最終的に天降りされた場所となる、
『古事記』 竺紫の日向の高千穂の久士布流多氣
『日本書紀』(本文) 日向の襲(そ)の高千穂の峯
「第一の一書」 筑紫の日向の高千穂の槵觸之峯
髙木隆弘氏はこの「襲(そ)」を「背(そ)」と解し、津乃峰山の「背(せ・うしろ)」である西側の傾斜地の内原町櫛ヶ谷に比定しているようです。
しかし「背」であればそのまま「背(せ)」でよいようにも思われます。
「襲(そ)」はあくまで「そ」であって、まだ裾(すそ)などとすれば納得ができるのですが、どうもしっくりしません。
「襲」:①おそう。おそいかかる。 ②つぐ。受けつぐ。引きつぐ。あとをつぐ。 ③かさねる。重ね着する。また、重ねた着物。
倭迹迹日百襲姫命の「百襲」もこれなんでしょうね(´・ω・`)
私は「久士」を「櫛」と解釈し、古代の櫛を検索。
◆彼岸田遺跡出土の横櫛
◆縄文櫛
◆上ノ原地下式横穴墓から出土した男女の人骨
頭骨に付いているのは黒く炭化した細い竹ひごを束ねてU字形に曲げ、根本を糸で結わえた竹製の竪櫛。
現代のつげ櫛とほぼ変わらぬ形状ですね(´・ω・`)
その「久士(槵)」が「布流(觸)」、「多氣(峯)」が「襲(そ:重なっている)」な訳なのですから、
つまり山々が重なり合ってるように見えつつ、それが櫛が降って来たように見える地形。
まずは上空から
何度もアップしているので見慣れているかもしれませんが、改めてご覧下さい。
特に寺山古墳側から南に見る辺りが櫛っぽいですね。
逆向きから(´・ω・`)ノ
「久士布流多氣」とは「櫛降る峯」=つまり、無数の山と谷が交互に重なり合うように連なり、まるで櫛が降ったような地形をした峯のこと。
天下ったとされる先にこのような地形があるところは稀なのではないでしょうか。
北には(狭いですが)平野部を、南には和奈佐が望める大谷山から鈴ヶ峰であろうと推測します。
昔は現在のような国道55号などはもちろん無く、和奈佐や宍喰方面へ行くには専ら馬路越、居敷越、櫛川より芥附に抜ける道などの山越えの古道を使っていました。
次項より更に考察を進めて参りたいと思います(´・ω・`)ノ
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