宮下章 · 2000
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さくほうの島々でつくられた鰹節の販路は、江戸時代の前後にかけて、琉球王国や薩摩はもちろんのこと、明~清国にまで広がっていた。またその産地は久高島だといわれていたことでも分かるとおり、久高海海人が製法指導・販売に関与した可能性は強いので ...1991 · スニペット表示
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海人として王に奉仕 ... このように久高の男子の年齢階梯制に首里の士族の称号が用いられているのには、「糸満・久高」として知られたこの海人集団の航海術が ... 中でも「唐旅」は大きな存在で、中国との進貢貿易による富は王府の大きな財源であった。亀島靖 · 1999 · プレビューは利用できません
琉球王朝や、首里城は、いつ、だれがどのようにしてつくったのか?「おきなわ」を知る良いチャンス。
名越護 · 2006
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あわがゆ薩摩藩は同年二月、樺山久高を総大将に兵三千、船百隻を琉球王国に渡海させ、まず、奄美大島の笠利間切の津代港に到着した。そのとき、笠利の大親・真牛(前島氏の祖先)は三千人を率いて柵を海岸に設けて防戦したが、薩摩軍は船から鉄砲を連発した ...松本三喜夫 · 2003 · スニペット表示
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王の帰国が許されたのは、それから二年半ののちのことで、帰国に際しては、奄美諸島は薩摩に譲ること、薩摩へ年貢を納めることなどのほか、さらに掟一五か条が定められ、琉球の対外貿易について細かく制限が加えられ、貿易が薩摩藩の事実上の監視下にお ...桐野作人 · 2005
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それに衝撃を受けた家久は琉球国との外交関係を独占することで得ていた貿易の権益が奪われるとして、老中の樺山久高を大将に任命し、遠征軍三千人の編成と軍船の建造に取りかかったのである。 1110 さんかん龍伯もその動きを止めることができず、代わって ...中村彰彦 · 2014
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日本人の精神の原点を訪ねて 中村彰彦 ... 実際に琉球は十七世紀初めに島津家久の送った樺山権左衛門久高ら三千の兵力に征服されて薩摩藩領に組み込まれ、琉球仮屋あるいは琉球館が置 ... よく島津はァ密貿易、をしたと言われますが、あれはおかしい。平凡社. 地方資料センター · 2002 · スニペット表示
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道光九年三月那覇府久米村人らが「久高島人共坐小船」などで焼酒・漆器・碗などの貿易のため国頭方面に向かったところ暴風に ... 同治二年(一八六三)薩摩鹿児島藩からその領内の浦人に水術を学ばせて海産物を採らせるために、久高人民の派遣が要請され ...1985 · スニペット表示
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たとえば久高島の人間が宮古の多良間島に漂着したとすると、一、二ヵ月くらい、つぎの便船がくるまでその島で生活の世話を受け ... 当時東シナ海を越えて四、五隻の船団を組んで中国に公貿易にいっているわけですが、その航海体制上の名称と行政組織上の ...次の書籍のコンテンツと一致: – 105 ページ
「久高の人たちが船を漕ぐ、船を走らす姿のきれいなこと」と歌う「久高節」が残っています。久高島には古くから〈はんじゃなし〉 ... です、遅れ大きい船に乗って貿易に行くだけじゃなくて、飛船という薩摩への公務連絡もこの島が担っていたんです。
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