2023年9月30日土曜日

日本の歴史を解明します 天の香具山1

日本の歴史を解明します 天の香具山1

天の香具山1

万葉集の情景から天の香具山を比定するということは、大杉氏等の阿波の古代史研究家もされていますが、九州王朝説の古田武彦氏も同じことをしているようですね。(古代史の十字路 万葉批判 古田武彦著)

いつも使わせていただいている万葉集検索システムによると訓読で"香具山"がヒットしたのは13歌ありました。
内、一番有名な、舒明天皇(629-641年)の国見の歌について、阿波説の立場に立って、解説してみたいと思います。

原文
山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者

訓読
大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

通釈
ここ大和には、山がたくさん寄り集まっているが、とりよろふ(語義未詳)天の香具山、その山の頂に登り立って領土を見渡せば、人の住む広々とした平野には、靄が立ちこめている。広々とした海では、あちこちで鴎が飛び立つ。豊かなよい国だよ、蜻蛉島すなわち、日本の国は。


みなさん仰られるのが、奈良にある天香久山からは、海原は見えないし、ましてやカモメが飛び立つのを見ることができないからして、天の香具山は、通説の奈良にある天香久山ではないということです。

これに対して、通釈では、奈良盆地はこのことは湿地帯であったから海原といえる、とか、奈良盆地にある池(どこの池?)を海原としたとか、苦しい解釈をしていますね。

では、阿波説に立って訳してみます。

私見
大和(奈良)には、山がたくさん寄り集まっているが、おいといて(笑)、天の香具山(眉山or津田山or気延山のどれか)に登り立って国見をすれば、陸の方では煙がたって、海原ではカモメが飛んでいる。豊かなよい国だよ、蜻蛉(トンボ)の様な島の大和(阿波)の国は。
眉山からの国見

最初の"山常"は大和(奈良)のことですね。次に"とりよろふ"とは、現代風にはおいといてと訳しました。一般には取り分けてよいのがと訳すみたいですが、自説にたつと、大和(奈良)の山も良いですが、という前置きになります。次に、天の香具山として、3つの山を候補にあげました。
最後に、"蜻嶋 八間跡能國者"解釈ですが、これは正直苦しい解釈になりそうですね。蜻嶋、これは徳島平野を指すことばと思うのですが。徳島平野は、吉野川の両岸、北に讃岐山地、南に四国山地に囲まれて、西から東に向けて細長く広がり、更に河口付近において南北に平野が広がります。ちょうど"とんぼが羽を広げている"様です。

では何故、徳島平野を嶋とするのでしょうか。柿本人麿呂の回で解説したのは、嶋とは水で隔てられていなければならないといったばかりなので、その回の説とは矛盾することになるかと思われます。しかし、これは、柿本人麿呂は倭(阿波)の人で、舒明天皇は、大和(奈良)とすると矛盾はないと思います。
http://awanorekishi.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

つまり、この歌は徳島の眉山等に登って国見をした時の歌ではなく、大和(奈良)の宮中にて、倭(阿波)での国見をした時を懐かしんで歌っているのです。
聖徳太子が倭→大和へと遷都したとの説があります。そうすると、年代から考えると、舒明天皇の幼少期のころを懐かしんでいるのではないでしょうか。
このころは奈良も阿波もいずれも大和(天皇の直轄地)であったから、阿波の方を"蜻嶋八間跡能國"とし、自分が住んでいる都の方は、単に"山常"と同じ大和でも使い分けたのだと思います。

そしてもう一度読んでみて下さい。おそらく、都が遷都してから数十年は立っているので、阿波を知る宮人は少なかったのでしょう。そういった人に対して、奈良も良いけど、阿波も海があって良かったでぇと懐かしむように歌って聞かせたものではないでしょうか。

阿波古事記研究会では天の香具山を神山にある元山としています。理由は、阿波国風土記に次のように記されているからです。 「そらより降り下りたる山のおおきなるは、阿波国にふり下りたるを天の元山と云い、その山のくだけて、大和国に降り着きたるを天香久山というなんと申す」

しかし、元山は佐那河内村の山奥で、海原は見えても、さすがにカモメは見えないですね。とすると、めぼしいところで、上記の3つの山が候補ですね。天の香具山とはなにかというと、大杉氏によると天の欠く山らしく、木の生えていないはげ山のことをいうとのことです。つまり、一つの山を指していないのですね。

その他の歌にでてくる天の香具山は具体的な山を指すのですが、おそらく阿波の山というくらいのニュアンスで歌われているのでしょう。阿波の固有名詞を出しても奈良の人はわからないですからね。

次回は持統天皇の天の香具山について解説したいと思います。

映画 眉山
皇太子さまが10/27、28と徳島に来るそうです。それも、美馬市にです。

実は、私と天皇家との間には、それはそれはとても浅いかかわりがあります(笑)。

先ず最初のかかわりですが、10年以上前でしょうか。私は、徳島市佐古の192号線沿いの定食やで少々遅い昼食を取っていました。昼食を食べ終えて店からでようとすると、国道が警察官によって封鎖されていたのです。そして、いつのまにか、192号線沿いには人盛りができていました。車で来ていたので動きようもなくぼおっとしていたら、皇太子殿下と妃殿下がいきなりあらわれて過ぎ去って行きました。私は皇太子妃殿下側にいたので、皇太子は見えなかったのですが、妃殿下とはばっちり目があいました(笑)。

次も10年くらい前と思います。場所は香川県屋島にあるパワーシティです。そこのマクドでこれまた少々遅い昼食を取っていました。そして、マクドからでようとすると、警察官がまたまた道路を封鎖していたのです。っで、11号線には人盛りです。また、皇太子かと思ってたら、なんと今度は天皇陛下がいきなりあらわれました。さすがに、その時は興奮したのを覚えています。

さて、皇太子が美馬市を訪問されますが、阿波の古代史研究家にとって、特に大杉派(笑)にとっては、これはこれは一大事件なのです。

というのも、大杉氏の研究によると、吉野宮の会盟において 天皇家の出自を隠すための大秘密政策を行い、そのとどめとして、空海による四国88か所による結界(天皇家発祥の地に入らせないようにするための)が張られたというのです。その発祥の地とは美馬郡一体で、特には天孫降臨の地の友内山とのことです。また、平安時代は、今の脇町あたりに関所が設けられ、高貴な人しか通ることができなかたとのことです。

結界は特に強力なのが、切幡寺(10番)、藤井寺(11番)、焼山寺(12番)と思われます。
1番から9番まで、等間隔で吉野川北岸の讃岐山地の麓を東から西に配置されているのですが、切幡寺からくいっと、南岸の藤井寺にいきなり飛びます。そして藤井寺からは、焼山寺に行くのに、88か所最大の難所として山越えをすることになります。

この配置は県外の人にとってはなんてことないのでしょうが、県西部の人からすると"why?"なのです。たとえば東かがわ市には88か所がないですよね。東かがわ市の人ならこの気持ちわかると思います。

天皇家は今までこの結界の内側にはいったことはないと思います。多分。
島流しとなった土御門天皇は、切幡寺の東の土成にて崩御されているので、おそらく、結界は破られていないはずです。ちょっとネットで調べてみると、現代においては、大正天皇、昭和天皇、今上天皇と皇太子の時を含めて少なくとも6回は行幸されているのですが(調べた範囲です)、美馬郡以西にこられたという記事は見つかりませんでした。今まで一番結界に近づいたのは、約20年前に神山町にて行われた全国植樹祭です。

個人的な意見ですが、天皇家が行幸していない場所だからこそ、阿波の中でも聖地としての地位が認められるというのが大杉氏の理論の一角を担っているのです。

そして、とうとう結界が破られる日が来てしまいました。このことから次の可能性が示唆できます。

①大杉先生、どうも四国88か所結界説は妄想みたいでした。
②現在の天皇家は聖地のことについて忘れてしまっている。又はなんとも思っていない。
③吉野宮の会盟から1000年以上たっているから、まあ良くないと思い切った。

②はちょっと考えられないですよね。可能性として高いのが①か③です。
①でしたら、田舎なんで、たまたま行幸されなかったということになっちゃいます。><

今回のことについて大杉先生がどう思われているのか興味がつきませんが、私は薄学なので、状況証拠のみで、高天原=貞光川又は穴吹川流域説を信じている人間です。(要は自分の頭で検討したものではないのです)

したがって最悪の場合は、大杉説を捨てることになりかねないです。
少なくとも私の中で大杉説を信じる為の最終防衛ラインを穴吹川、貞光川下流域の吉野川に引きなおしが必要となりました。この最終ラインは今回は守られるみたいです(笑)。

※我ながらかなり不敬なブログになってしまいました。端的に言いますと皇太子殿下に美馬の地を踏んでいただきたくないということになっちゃいますね。でも、実際に結界が破られる以上は、大杉派にとっては深く受け止めなければならない事ですね。
持統天皇が歌った有名な天の香具山の解説です。

原文
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
訓読
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山

春が過ぎて夏が来らしい、白妙の衣を干している天の香具山には。

先ず、奈良にある天の香具山に衣を干すという情景がわからないみたいですね。
そのためか、みなさん、解釈に困っています。ちょっと、調べただけでも、
①木の枝に衣を干す習慣があった
②白妙とは残雪のことで、夏が来ても山に雪が残っている情景をうたった
③天の香具山には衣は干していないが、その麓の民家で白妙の衣を干している情景をうたった
①②なんて論外ですよね。①木にほした衣が遠くから視認するためには木の上の方に衣を干さなければいけないので、わざわざ、衣を干すのにそこまでしない。②現在より寒冷であったとしても夏が来ても奈良の香具山に残雪が残るわけがない。③が唯一妥当ではあります。でも苦しいですよね。

さて、以前にも述べましたが、天の香具山とは、阿波(倭)の山という程度の意味と捉えれば、この歌はすんなり読めるのです。おそらく日本中にある山の中でここまで情景と条件が揃っているものはないと断言できます。

場所は、徳島県美馬郡穴吹町の友内山です。
友内山とは大杉説によると天孫降臨の地です。ここには徳島県で最もミステリアスな神社である白人神社と磐境神明神社があります。
さて、天孫降臨の地であるかどうかはおいといて、この山の上の方を首野といい、忌部の首長が住んでいたことが地名の由来です。そして、ここの忌部が大嘗祭の際に天皇に白妙(木綿)を貢進していたことから、山の麓から首野に至る山道を"白妙の道"と呼んでいます。
(一方、木屋平の忌部は荒妙を貢進し、今でも三木氏が行っています)

白妙の道


友内山


ここであれば、情景は一致しますね。
日本中どこを探しても、友内山ほど、この歌にぴったりな山はないでしょう。
熱力学第一法則とは、次の式にて表わされます。
dU = Q+W ①(閉じられた系)
上記の式は閉じられた系、即ち、外部と遮断された系におけるエネルギー保存即を表しているものです。dUとは、系のエネルギーの増加分で、Qとは系の熱量、Wとは系が行う仕事量のことです。

これは原発の発電における基準式ともいえるものです。dUとはウランの核反応エネルギーにより、系において熱と仕事がされます。仕事とは、発電のことで、具体的には水を沸騰させ、タービンを回転させてその仕事により電気を発電し、送電することになります。つまり炉内が安定するのは核反応により生成された熱エネルギーと発電及び送電による仕事が均衡することになるため、炉内は安定することになるのです。QをWにより制御できるのです。

さてこの熱力学第一法則を原発事故にあてはめてみます。

津波によりプラントにおいて全電源喪失となったことから、タービン及び復水器(水蒸気を水に戻す機器)が機能しなくなりました。つまり、原子炉は外部から制御ができない状態で、かつ、外部からエネルギのやりとりが遮断された状態、つまり、閉じられた系となりました。したがって、原子炉は上述の式があてはまる状態といえます。

では、最初の1号機の水素爆発に至った経緯を簡単に振り返ってみます。

まず、地震の発生と同時に制御棒により燃料棒が遮断されることになるので核反応は停止しました。しかしこれまでの核分裂反応による原子崩壊までは停止できないため燃料棒から原子崩壊によるエネルギーdUが発生することになります。このエネルギーにより、外部に対して仕事ができない原子炉は、内部エネルギーを上昇し続けることになります。いわゆる暴走状態です。

次に東電は原子炉内を冷やすために冷却水を注入しました。注入する水がなくなると海水を注入することになりますがこの時に官邸からまったがかかりました。しかし吉田所長は官邸の意向を無視して海水を注入し続けました。翌日、内部圧力が上昇したため、ベントを行い、その直後に1号機にて水素爆発が発生しました。

水素爆発が起こった要因は海水注入とベントの遅れとのことですが、これは本当に正しいのでしょうか。少なくとも熱力学の法則にあてはめると全くのでたらめであることがわかります。なぜなら、水を注入したところで①炉内の内部エネルギーdUは減少しないばかりか、②水(海水)は、水素の発生源であるからです。また、③ベントは炉内の内部エネルギーを減少させることはできますが、いわゆる均衡状態がやぶられることになるため、水素爆発のリスクを高めることになるからです。それでは順をおって説明します。

①水の注入について
炉内におけるエネルギの発生源は燃料棒の原子崩壊熱です。これは通常の化学反応とは全く別次元ですので、冷却水を注入したところで発生するエネルギーdUに影響を与えることはできないのは明白です。ではなぜ水を注入したのかというと一時的に炉内を冷やすことができるからです。水の液相状態における沸点は100℃のため、炉内を水を満たせば100℃以下になるからです。しかしこれは一時しのぎであることは小学生にもわかりますよね。なぜなら、系は閉じられていたので(タービン等を復旧させていない)、その復旧ができない以上はW=0のため炉内の温度は上昇し、かつ、更に炉内の気圧を上昇させることになったのです。
もっと言えば、系は完全には閉じられてはいないので、dU=Qであり、Qの一部は外部に放熱されることになりますが、水を注入することにより、その拡散するはずのエネルギーが化学ポテンシャルを上昇させることになるので、結果として何もしない場合よりも、炉内の内部エネルギーを上昇させることにつながるのです。そしてそのエネルギーにより水素分子と酸素分子が発生することにもなるのです。

②水素の発生について
冷却水は完全な真水であるのでこれを温度による熱分解であろうが化学的な電気分解であろうが、水素を発生するだけのエネルギがあったとは到底思えません(計算は省略)。熱による電気分解でも2000℃以上は必要となるからです。一方、海水であればイオン化しているので、燃料棒を覆っているジルコニウム合金との酸化還元反応により少ないエネルギにて水素と酸素が発生することになります。つまり海水注入こそ水素を発生させたということについて、最大の愚策であったといえるのです。水素の発生源は海水であったと断言できます。

③ベントについて
ベントにより炉内の気圧と温度は急激に低下することになりました。この結果何が起こったかというと、燃焼されない水素と酸素が炉内にたまり続けたのです。簡単に言うと、ガスコンロにおいてガスはでているけども着火されない不燃状態と同じことです。温度が高ければ発生した水素と酸素は即酸化反応がおこるので、水素と酸素がたまり続けることはありません。これは水素などのガスを取り扱う者にとってはあたりまえのことでえす。温度が高いということは実は安定(均衡状態)になるのです。したがって炉内を急激に冷やすことはこの均衡状態が破れるため、水素爆発のリスクを高めることになるのです。

水素爆発は1号機、2号機、3号機にてそれぞれ起こりました。全て、海水注入→ベントの後に水素爆発しています。特に2号機の爆発は1号機のそれよりも100倍以上の放射性物質を放出しています。このことは1号機はベントされた気体が原子炉母屋にたまってそれが爆発したにすぎないが、2号機は原子炉内の水素爆発であったことを示唆していると思います。特に2号機の水素爆発の推移を確認すると上記にぴったりあてはまるのです(海水注入→ベント→爆発)。これらのことから、ベントですら水素爆発の要因であったことがわかります。

ではなぜ、原子力委員会とか東京電力とかのプロがこのような高校生でもわかる熱力学第一法則に反する対応を行ったのでしょうか?これには賛否両論でしょうが個人的にはマスコミが最も責任を負うべきと考えています。マスコミは、東電及び国に対して非常に早い段階からメルトダウンの危険性を指摘するなどのプレッシャーをかけ、東電及び国に足かせをはかせたのです。その結果、最も警戒するべき水素爆発のリスクを回避するべきであったにも関わらず、メルトダウンを回避する方向に舵を切らざるを得なかったのです。その結果、非常に危ない橋を渡らされたのです。何もしなければ水素爆発がおこることはなかったと断言できます。

一方で、よくメルトダウンにより核納機の床がぬけたらとんでもないことになるとかいう意見がありますが、これは全くのでたらめであったことがわかります。なぜなら、既にメルトスルーにより燃料は核納機から漏れ出ていることがわかっていますが、環境に与えた影響は水素爆発と比べると取るに足らないからです。

燃料棒の温度なんてたかが3000℃程度といわれています。この程度の温度であれば、十分に母屋のコンクリートにより外に漏れることはありません。これはスリーマイル島の事故で実証済みです。スリーマイル島の事故で溶けたウランが地球の裏側の中国まで流れ出るというデマ(いわゆるチャイナシンドローム)がありましたが実際はコンクリートを数十センチ掘った程度でした。今回の事故はまさしくその類のデマに踊らされたといえるでしょう。それもマスコミによってです。そのため世論がミスリードされたのです。大学入試レベルの知識があれば惑わされることはないのですが、核アレルギーみたいなものが正常な判断を誤らせたのでしょうか。

とにかく、事故の対応が継続している段階にて、全くの素人である者があれこれ意見をすることが如何に愚かしいものであるかということです。マスコミは、なぜ海水を注入しないのか?なぜベントをしないのか?はたまた東電がベントをしようものなら、なぜ、我々になんの通告もなしにベントをしたのか?と東電を非難していました。全くもってナンセンスです。

ベントとは炉内の気圧がにっちもさっちも行かなくなった場合の緊急措置のはずです。そういった状態に陥ることがないよう手段を尽くしている段階で、何日何時にベントをするなんてことを事前に通告できるわけはないのは自明です。

水素爆発による被害を想定することすらできないマスコミが、ことさらたいしたことのないメルトダウンの危険性をあおり、ましてや、非常的手段であるベントに対して意見を述べることにより、このような甚大な被害を起こさせた原因の一端を担ったといえるのです。

何度も言わせていただきますが、事故の継続中に責任問題を問うとか対応に意見するなんてことは間違いです。そんなものは事故が復旧してから、いくらでも責任を追及すれば良いのです。そしてそのことに自覚がないのが左翼系のTBSとテレ朝なのです。
邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和 という本を立ち読みしたのですが、これによると邪馬台国時代の奈良における土器の出土はうろ覚えですが、阿波式土器が40%で、次に吉備、播磨、讃岐と続くそうです。

おそらく邪馬台国近畿説の方は、首都だから地方の土器が出土するのは当たり前だ。古代において人、物の流通が活発に行われていた証拠だとか言うのでしょう。

んなあほな!

この時期に貨幣経済が行われていたのであれば少しは納得できますが、それでもんなあほなと言わせて頂きたいですね。

古代の人は阿波、吉備等から大和(奈良)まで、いったい何を運んだのでしょうか?米や粟などの穀物をわざわざ、割れやすい土器に入れて運ぶなんてナンセンスですよね。かろうじて考えられるのが、
①奈良では土器があまり作られなかったから、土器そのものを地方から輸入若しく徴収した。
②液体すなわち地方のお酒を輸入若しくは徴収した。
でも、①土器なんて土をこねくり回して焼くだけなんで、輸送コストよりも製造コストの方が圧倒的に低いし、②阿波のお酒でないとダメなんてグルメもいなかったでしょう(笑)。土器というものは古代において水がめとして使用していたのでしょう。であれば日常品で消耗品です。これを地方から輸送するなんて絶対ナンセンスです。答えは三通りです。

ⅰ)土器を作る集団を地方から徴収した。特に阿波人が多かった。
ⅱ)圧倒的な武力を元に地方から奴隷を徴収し、特に多かったのが阿波人であった。
ⅲ)既に大和朝廷の原型が成立していて、一番勢力があったのが阿波人であった。

ⅱ)もほとんど可能性は0です。土器の出土数=出身地の人とすると、10%の奈良人で残りの90%の地方人を奴隷としていることになるからです。ⅰ)の可能性は否めませんが、ⅲ)単純に考えるとそのころの奈良人の40%が阿波から移住した人になります。

40%もの人間が阿波から来たということは即ち、奈良は阿波の直轄地であったと考えるのが妥当でしょう。

そう考えると、畿内の地名と徳島の地名が同じでもなんら不思議でもなんでもないのです。

同じ地名を挙げると、奈良坂、大坂、川内、勝浦、吉野川、海南、白浜、長尾街道(香川)、etc

また奈良には阿波という地名までありますからね。

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