河童はユダヤ人の象徴!?河童に関する意外な真相とは。
河童といえば、日本に古くから伝わる妖怪のひとつですが、その河童はもしかすればユダヤ人の象徴であったかもしれません。
体は緑色で、頭に皿が乗っていて、キュウリ(胡瓜)が好きで、相撲が好きで、魚を主食としていて、岩手県の遠野の名物でもある…。このイメージは、ただ適当に作られたイメージなんかではありませんでした。
それだけでなく、河童は古くからの妖怪ということもあり、日本の隠された古代王朝とも関連があったのです!
ということで、河童について歴史的に深く考察していきたいと思います。
河童はユダヤ人の象徴!?
カッパ=ユダヤ人の帽子「キッパ」?
まずは以下の画像をご覧ください。
(Fool on the planet blog 天狗と河童とユダヤ人より掲載。)
これはユダヤ教民族の伝統的な衣装の一種で、男性がかぶる帽子のようなものです。
「嘆きの壁」などのユダヤ教の聖所に入るときには、原則としてこの「キッパー」を被らなければいけません。
宗教指導者などの立場にもなれば、キッパーの上に「タリート」という白い布で頭からマントのように覆うのだそう。また、「出エジプト記」と「申命記」から抜粋した文を羊皮紙に書いたものをいれた黒い革箱「テフィリン」を頭と腕につける人もいます。
「テフィリン」を身につけたユダヤ人たちの姿はまさに「天狗」を彷彿させますが、とりあえず今回は深掘りしないでおきましょう。
とにかく、キッパーは名前も見た目もカッパと似ています。
これは単なる偶然なのでしょうか…?
河童が、相撲ときゅうりを好きな理由。
きゅうりはユダヤ人の食べ物だった。
Fool on the planet blog 天狗と河童とユダヤ人
河童といえばキュウリが思い浮かびますよね。
そのキュウリは日本語で「胡瓜」と書きます。
なぜキュウリは「胡瓜」と表記されるのでしょうか。「胡瓜」の漢字をみて何かを連想することはまずないでしょうが、実はここに古代からの歴史が隠されていました。
調べてみると、この「胡」という漢字は「シルクロード」を経てきたことを示すのだそうで、かなり古い年代に日本に入ってきたものだと言われています。
キュウリの原産地はインドとされていますが、実はキュウリは古くからユダヤ人たちにも親しまれてきた野菜でした。紀元前4000年前からメソポタミアで盛んに栽培されていたとされていたともあり、このようにユダヤ人にも胡瓜を食する文化があったとは驚きですよね。
河童→キュウリ(胡瓜)→ユダヤと繋がるわけですが、これだけではありません。
「胡」という漢字ですが、これは単に「えびす」とも読める漢字です。
というのも、「胡」という字は中国から見た西方諸民族を指し、シルクロードを渡って来たことを意味しているのだそうで、古代中国における東方諸民族の称である「夷(イ・エビス)」と同義語です。
つまりこれだけでも、古代ユダヤ人が、古代中国〜古代日本へと大陸を横断してきたであろうことが想像できます。ですので、日ユ同祖論は都市伝説でも何でもないわけです。れっきとした史実です。
このようにキュウリひとつ取ってみたとしても、日ユ同祖論の壮大な歴史的背景が垣間見えてしまうのでした。
相撲のルーツはヘブライ語にあった。
また、河童は「相撲が好き」だとも言われていますね。
河童が相撲好きだという伝承は、広く各地に伝えられる。河童は相撲を挑むから、うっかり見ず知らずの者とは相撲などとってはいけないなどという。
その相撲ですが、ルーツはユダヤにあるという説があります。
というのは、相撲=シュモーであり、ヘブライ語由来だというのです。
相撲という言葉のルーツは果たしてユダヤなのか?
11月27日に放映された日本テレビの情報番組「スッキリ」に元貴乃花親方の花田光司氏(46)が生出演して、唐突に「相撲って日本語じゃない。ヘブライ語なんです」、「相撲は当て字で、日本語じゃないんですね。もともとシュモーというヘブライ語なんですね」と語ったことが物議を醸し、多くの波紋を呼んでいます。
ではなぜ、1対1の取り組みを相撲(すもう)と呼ぶようになったのでしょうか。相撲という呼び方の由来は定かではありません。
相撲の競技は、2人の力士が1対1で組み合い、土俵の外に出すか、相手を倒すかにより勝敗が決まることから、一説によると、力や技を争うことを意味する「すまふ(争う)」という言葉、もしくはその連用形である「すまひ」が変化して「すもう」になったと言われています。平安時代では、すでに知名抄の中に「相撲須末比」と記述され、古代では「すまひ」に近い発音で呼ばれていたと考えられていたことからしても、信ぴょう性は高まります。
その一般的な考え方に反して、元貴乃花親方が相撲という言葉はヘブライ語であると公言したからには、それなりの根拠があるはずです。早速検証してみましょう。親方は相撲という言葉は、「もともとシュモーというヘブライ語」であると断言しました。「シュモー」はヘブライ語で
(Shumo,シュモー)と書きます。
(shem,シェム)は名前を意味し、語尾に
を付けると「彼の名前」という言葉になります。なぜ、「彼の名前」が相撲に関連するのでしょうか。その答えは旧約聖書から見出すことができます。
旧約聖書の創世記第32章には、イスラエル民族三大父祖のひとりであるヤコブが、天の御使いと夜明けまで、暗闇の中で取っ組み合いの格闘をしたことが書かれています。夜、川沿いに一人残されたヤコブは、突如として暗闇に現れた神の使いと組打ちをし、夜明けまで格闘したのです。
そして神の使いはヤコブを打ち負かすことができず、力づくしで勝ったヤコブに、「イスラエル」という新しい名前を与えたのです。この格闘の結末こそ、イスラエルが神の選民であることの証であり、ヤコブは「わたしは顔と顔をあわせて神を見たが、なお生きている」と驚嘆したのです。それはイスラエル国家の始まりをも意味していました。…
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そこで、今一度、「はっけよいのこった」をヘブライ語で、ありのままの発音で読んでみました。すると、ごく普通に3つの言葉から形成されていることがわかりました。まず、「はっけ」は、ヘブライ語で
(hikah、ヒカー)と書き、打つ、やっつけるを意味します。次に「よい」は、「私の神」を意味する、
(yohi、ヨヒ)であると考えられます。この2つの言葉を組み合わせると、「はっけよい」、
(hikah-yohi、ヒカーヨヒ)となり、その意味は「撃つことは聖なるかな」「撃ち破ることは神聖なり」という意味になります。発音も実際にヘブライ語で聞いてみると、頭の「ひ」と「は」はほぼ同じに聞こえ、「よひ」も「よい」の発音に酷似していることから「ヒカーヨヒ」は「はっけよい」のように聞こえます。続く「のこった」という言葉は、ヘブライ語の、
(nokahta,ノカッタ)と考えられます。その意味は、「問題ない」、「大丈夫」です。
「はっけよいのこった」の謎が解けてきたようです。
ヘブライ語で解釈するならば、「撃ち破ることは神聖であり、問題なし!」という意味だったのです。よって、立ち合いの前にまず、「(相手を)撃ち破ることは神聖である!」と行司が宣言し、その直後に格闘が始まると、2人の力士に対して、「ノカッタ」「ノコッタ」、問題ない、まだまだ、大丈夫、と叫ぶのです。
そしてどちらかが敗れるまで、まだ大丈夫、まだ土俵に残っている、問題ないぞ、とヘブライ語で叫び続けるのが、「ノカッタ」の意味だったのです。
相撲の掛け声も、ヘブライ語由来だったのですね。
しかも、しっかりと翻訳できました。
ユダヤ教の始祖である「アブラハム」の孫にあたるのが「ヤコブ=イスラエル」ですが、相撲のはじまりはここにあり、ユダヤ人はそれを文化のひとつとして日本へ持ってきたのでした。
このように、「河童」が「きゅうり」と「相撲」が好きというのはただの適当な設定なのではなく、ユダヤの文化と歴史に基づいたものだったのです。
さらに、相撲と関連深い行事として「七夕」があるのだとか。
相撲と七夕、はじまりはユダヤ!?
また、相撲は七夕と関連が深いことが注目される。
節会相撲が盛んであった時代に、公では7月7日に行なわれており、民間伝承中にも七夕の相撲がしばしば見られる。七夕は先祖祭りに先立って物忌みを始める日で、川や海に入ってみそぎが行なわれた。
そのために水神である河童に対して祭りをして鎮めることになるが、そのひとつとして相撲が行なわれたのではないかとも考えられている。
なぜ7月7日の七夕の日に相撲が行われるのかといえば、この日に「野見宿禰」と「當麻蹶速」が相撲をしたからなのだそうです。
相撲といっても、「野見宿禰」は相手を蹴り殺したわけで、古代の相撲はそんな生優しい遊びのような試合ではありませんでした。
また、「野見宿禰」と「當麻蹶速(当麻蹶速)」の相撲が最古の記録ではありません。古事記にはさらに古い記録が残っています。ですが、基本的には「野見宿禰」のこの戦いが相撲の発祥だとされています。
この「野見宿禰」ですが、「土師氏」の祖でもあり、すなわち菅原道真の祖でもあります。
天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。
出典:wikipedia
「野見宿禰」の系譜をたどれば、その祖は「天穂日命(アメノホヒ)」となります。「アメノホヒ」について簡単に説明すると、古代に天照大御神と素戔嗚命が誓約したときに生まれた五男三女神の一柱です。
神とありますが、これは人です。隠したい歴史を神話化したわけですね。この点については日本の古代の歴史を調べるうちに確信できました。
ここからの話はちょっと逸れてしまいますが、この後説明していく内容にもつながっていく話になります。ディープにはなりますが分かりやすく説明していきたいと思います。
野見宿禰は出雲の人間。
野見宿禰の相撲に関した一連の出来事は、出雲が関係しています。野見宿禰は出雲から来た人間でした。
『日本書紀』巻第六、垂仁紀にはBC23年のこととして、つぎの記事が見える。
垂仁七年の秋、七月七日にお側の者が申し上げた。
「当麻(たぎま)邑(むら)に勇み強い人がいます。当摩蹶速(たぎまのけはや)と言い、その人となりは、力強く角を壊し、曲がった鉤(武器)を伸ばします。いつも『四方に探しても我が力に並ぶものはおるまい。力の強い者に会って生死を問わずにひたすら力比べをしてみたいものだ』と言っています」
天皇はそれを聞いて、群臣に言われた。
「朕(わたし)は当麻蹶速は天下の力士だと聞いたが、これに並ぶ者はいるか」
臣下の一人が進んで申し上げた。
「出雲国に勇士がいます。野見宿禰といいます。試みにこの人を召して蹶速と勝負をさせたらいかがでしょうか」
その日のうちに、倭直(やまとのあたい)の祖(おや)・長尾市(ながおち)を遣わして、野見宿禰を召した。野見宿禰は出雲からやって来た。
出雲だから何なのか、と思われる方も多いことでしょうが、であれば私の以下のツイートも合点がいきます。
出雲から来た「野見宿禰」は殉死者の代用品として「埴輪」を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を与えられました。その後、曾孫の「身臣」が「土師氏」を賜りました。
位山を中心に、きれいにレイライン上に沿って「はに=はじ」があること、そして、出雲出身の野見宿禰の子孫が土師氏を賜ったこと、これは偶然にしては…ですよね。
飛騨王朝と縄文人とシュメール。
画像は飛騨王朝の中心にあったであろう、位山です。
飛騨王朝自体、その存在は歴史的には認められていません。
しかし、飛騨王朝の中心にあったと考えられている「位山」にはペトログラフ が刻まれている岩がたくさんあります。
日本で発見されたペトログラフ の99%はシュメール文字として解読できるという説もあるくらいですし、単純にそれだけで考えたとしても、シュメール由来の王家の人間が日本に住みついて国を築いていたと考えられるわけです。
その経緯を説明することはできませんが、歴史上の出来事をひとつひとつ整理していけば、不思議とそれが突飛な見方なんかではないというのが何となく分かってきます。(わたしはそうでした)
シュメール人と縄文人については、こちらの過去の記事で解説しています。
このように、縄文人はスンダランドにあったであろう超古代文明の人種なのかもしれません。その超古代文明があったスンダランドはムー大陸の一部だった可能性もあります。
そして、縄文人は消え去った「スメル文明」をメソポタミアに持ち込み、そこでまた再度「スメル王国」を立ち上げた、ということです。
中央アジア・古代中国編
ムー大陸があったとして、そこから生き残った王族がおおまかに日本とシュメールに分かれて王国を築いたのだろうと、わたしは考えていますが、まあまあ詳しく検証していますので過去の記事を参照していただければと思います。
以下もシュメールと縄文人に関連した記事になります。
飛騨の前は、「斐陀」だった?
飛騨王朝に関して、こんな記事もありました。
飛騨というのは、元は「斐陀」と書きました。斐陀国造、斐陀国。
飛騨と書くと「ひだ」としか読めないんですが、斐陀だと「いだ」の音もあると気づきますね。
「いだ」というのは蛇と関連付いている言葉だというのは知ってましたか。
【委蛇】いだ
①うねうねと這い回るようなさま。②なよなよとしたさま。③すなおにものに従うさま。④旗のひるがえるさま。
【委】[古訓]ウルハシ
(学研漢和大字典)
ウルハシとは蛇の異名。倭をあらわす「委」がウルハシなのは意味深なんです。むかし倭国は「委奴国」という名前だったみたいなんですが。
「麗し(うるわし)」というのは美しいことを言うのですが、ヘビが美称に用いられてる理由は、古代倭国の蛇神信仰の名残りだからなんですね。(省略)
同書で斐と陀についても調べてみると、
【斐】あや
[意味]左右対称になった模様。模様や飾りが美しい。
[解字]非は羽が左右の両側にそむいたさまを描いた象形文字。「文(もよう)」左と右と対象するもよう。
[古訓]ウルハシ
ウルハシ
【陀】[解字] 蛇と同系のことば
【蛇】[古訓]ウルハシ
つまり斐陀というのは古訓で「ウルハシ・ウルハシ」で、その意味は「蛇・蛇」なんすよね。
ここで忘れていけないのは、「斐」は左右対称の羽がついていること。
つまり斐陀とは本来は「翼ある2匹の蛇」を表してるのですよ。
話は戻って「いだ」ですけど。これは弥生時代後期の西暦57年に後漢からもたらされた金印の「委奴国」と関係してるんではないかと。「後漢書」では、
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
ここに登場する「委奴国」は福岡市の付近で、倭の極南海(最南端)で、この当時は朝鮮半島南部~九州が倭国の領域だったと見られるんですが。とか言ったら韓国人は混乱してしまいそうですが、「後漢書」と「魏書」の倭人伝、韓伝、それに「日本書紀」を見る限りでは任那、弁韓と呼ばれた地域が倭人居住域だったのは間違いないでせう。
委奴を「いだ」とするなら「斐陀」と同じになってきます。おそらく九州の委奴国は、のちに伊都国と奴国にわかれるんだと思います。伊都国は九州の福岡市付近です。
奴国は福岡市付近と、本州の中部地方にあったんじゃないかと思いますが。それが信濃国、美濃国、大野郡、伊那郡、恵那郡など広域的な「奴=濃・野・那」の地域。
そして委奴=斐陀なので、斐陀国も。
この地域が「魏志倭人伝」に出てくる「狗奴国」に対応するとは、「崇神天皇に封印された卑弥呼と壱与」と電子書籍「日本の地名の真の由来と神武東征のカラクリ仕掛け」でも書いてますけど。
翼ある2匹の蛇?古代オリエントのメソポタミア研究やアメリカ大陸の歴史を知ってる人なら、ピンと来ますけど。
「翼ある2匹の蛇」
Ningishzida – Wikipedia, the free encyclopedia
ニンギシュジッダ
メソポタミアの冥界の神。
シュメール神話によれば、ニンギシュジッダは、世界をつくった天空神アヌの宇宙神殿を保護する者。翼のある蛇として描かれる。
やはりここでもシュメールと繋がってしまいました…(トリハダ)
しかし、これだけではありません。
「斐陀→飛騨なのではないか?」ということでしたが、なぜ「飛騨」になったかといえば騎馬民族が関わっているかもしれないとのことでした。
飛騨と騎馬民族
斐陀のあとは飛騨。
飛騨とは「飛・馬・単」で、「一頭の馬が飛ぶ」んですよね。
日本列島に馬が入ってきたのは、3世紀~4世紀以降となっているんです。
つまり「翼ある蛇の斐陀」が何故か「一頭の馬が飛ぶ飛騨」に取って代わられた様子がわかるんですね~。これはつまり蛇信仰だったのが、馬を扱う文化の集団に変わっていることを意味するのかと。まぁこれが「名は体を表す」から導かれる答えなんですけど。
で、最初に奴国があった中部地方が、騎馬民族的な思想に変ったというのは理由あります。中部地方というのは「匈奴系地名」に変遷したからなんですね~。
以前の記事で
「騎馬民族の影響を完全否定するのはトンデモ(1)」 匈奴は来た
で書きましたとおり、
飛騨はHi-Daで、匈奴Hiun-Doと子音の一致が見られますね。
おとなり信濃Shina-Noは、匈奴Xiong-Nuがションヌ、ショナヌ、シナノ ですよ。
京都も匈奴そのまんまですしね。
で、これを表すのが「一頭の馬が飛ぶ=飛騨」なんではないかと。
中国の故事「天高く馬肥ゆる秋」略して「天馬」なのですが、これは本来は匈奴の馬を意味していて、「天馬」は「飛騨」に対応してることがわかりますね。
飛=天
騨=馬
こうゆうことだったんではないかと。だから飛騨に騎馬民族が関係してるってことなんですよ。
ちなみに匈奴の神話で、「狼を始祖とする」っていうんですが、騎馬民族だった匈奴、烏孫、突厥などは、みんな狼を先祖としていましたね。
その狼はどこから来たか?
突厥の神話では「西の海からやってきた」って言っているので、地中海・黒海地方にいた民族が、東へ向かった、それが匈奴の祖先ってことなんですよ。
更に付け加えると、飛騨に入っているのは、匈奴の単于を輩出する「攣鞮氏」ですよ。何故かと言うと。
【攣】レン①ひく。
【鞮】テイ①平らな皮革。
攣(ひ)鞮(だ)
ですね?
ところで御嶽山(おんたけさん)ですが、これは匈奴のあと突厥が本拠を置いた「ウトケン山(都斤山・鬱督軍山)ですかね。ウトケン山、ウントケ山、オンタケ山なんちゃったりして?
匈奴のルーツとしては、もう目星は付いてますが、ヒッタイトですかね。匈奴はヒッタイトの音写のように見えますし。匈奴は古くから製鉄もしてましたし。
彼らはシュメールの翼ある2匹の蛇の民の末裔なのかもです。なんらかの関係はありそうです。
それから気になるのは「委」と書いて「ユダ」ですよね。深い意味がありそう。こういうのは上古の日本語、古訓、漢字の音読み、訓読み、呉音、漢音を使いこなす日本人じゃないと、解読不能になってるみたいです。
地中海地方(ヒッタイト)→匈奴(攣鞮氏)→倭の委奴・斐陀に合流→飛騨→岐阜
ということが想像できますけど。
それで「飛騨の口碑」というところで、飛騨こそが高天原で倭の中心だと言っているのですが。おそらく元々は委奴=斐陀が日本列島を統治していた王族の民なのでした。そこに匈奴の攣鞮氏が乗っかってきて、騎馬民族なので飛騨に改称されていることで頷けますね。高天原は匈奴の信仰したテングリと結びついていますし。
飛騨は匈奴由来の名称とのことですが、他の可能性もあります。
むしろ私は、匈奴由来ではないと考えます。いずれにしろ推測の域をでませんが、それぞれで判断してもらえればと思います。
以前、クナト大神について記事にしたことがありました。
クナトは、名前からしても「狗奴国(クナ)」や「奴(ナ)=濃・野・那(ナ)」が連想できますが、それだけではありません。
吉田大洋氏「出雲帝国の謎」で大国主はクナト大神の子であり、クナト大神は出雲本来の神として扱われている。出雲の神社では本来クナト大神を祀っていたものが素盞嗚尊に取って代わったと言い伝えられている。
http://mb1527.thick.jp/N3-18-2izumoouchou.html
クナト大神とは、聞きなれない神の名前ですが、そもそも出雲族の起源は、3千500年以上前にアーリア人の侵攻によって、日本に民族移動してきたインドの先住民ドラビダ人だそうで、クナトの大神はクナ地方に支配していたクナト王です。
そしてわたしは次のように考察しました。
つまり「クナド大神」→「猿田彦=恵比寿天=事代主=竹内宿禰=住吉大神」です。恵比寿はエミシなので、東夷の夷ともつながります。
クナド大神はインド半島の先住民であった「ドラビダ人」の王で、その王が3500年前にやってきたとのことでしたが、では「猿田彦」は日本で生まれたのかといえばそうではないかもしれません。
実は、サカ族は「インド・スキタイ王国」というサカ族の国を建てていました。時代は紀元前200年〜後400年頃です。もしかしたら猿田彦は、この「インド・スキタイ王国」から来た人物なのかもしれません。来たというより、どちらの国も"故郷"として行き来していたとも考えられます。
サカ族とは騎馬民族です。こちらも日本の文化と根深い民族です。
「スキタイ」はもはや体制の整ったひとつの国であり、"小さな日本国"と言っても良いのです。軍事・政治面でも他の国家とひけを取らない強さを持っていました。
複数あるスキタイのコロニーの頂点には「王族スキタイ」が君臨していたようですが、このスキタイの王族はまるで「天皇」と同じだったと分かります。「王族スキタイ」であっただろう「サカ族」の衣装もまた、日本の王族が身につけていたものととても似ています。
このようにサカ族は日本の王族と共通点が多い民族でした。
スキタイも複数の集団に分かれていましたが、サカ族もまた3種類に分けられていたようで、そのうちの一つに「サカ・ティグラハウダー」がおり、意味はトンガリ帽子のサカなのだそうです。より王族に近そうですね。
サカ族=昔氏=蘇我ですので、サカ族はのちの蘇我氏にも繋がっていきます。
また、武内宿爾は蘇我氏の祖でもあるそうなので(くわしくはこちら)、武内宿爾といえば神功皇后の愛人であり、こうしてわたしが解読に力をいれている「東表国=豊国=秦王国」につながっていくのです!
秦王国では河童の神事があった!
秦王国と七夕のつながり。
かなり話が長くなり大幅に逸れてしまいましたが、七夕の話題に戻ります。
まずは七夕とは何か、wikipediaの内容を見てみましょう。
七夕(たなばた)は、中国大陸・日本・韓国・台湾・ベトナムなどにおける節供・節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。星祭り(ほしまつり)ともいう。(省略)
中国
織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首[1]」が文献として初出とされている[※ 1]が、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
日本
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。
「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。
また、七夕はこんな話。
昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんをむかえてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。
その話の中でカササギが登場します。
鵲橋(しゃくはし、かささぎばし)とは、中国の伝説で旧暦の7月7日の七夕の日に天の川上にできる橋の名前である。この橋は織姫と彦星が出会うためにできることから、鵲橋とは男女が良縁で結ばれる事を意味する。
『淮南子』からの引用とされている「烏鵲河を填めて橋を成し、織女を渡らしむ」という白孔六帖の文章が出典とされる。 しかし、菅原道真に「彦星の行あいをまつかささぎの 渡せる橋をわれにかさなむ」の歌があり、日本では男性である牽牛星が橋を渡るものとされていたようである。
カササギは、七夕の日、天の川に翼を広げて橋をかけ、織女と牽牛の出合いを助てるとされる白黒二色の鳥。
以前、カササギ(鵲)について以下のように書いたことがありました。
サカ族の中国表記が「昔」で、新羅の第4代王とされている「脱解尼師今(だっかいにしきん)」の姓が「昔」でした。
新羅の起源がこれまた謎なようで、朴氏・昔氏・金氏の3つの王系に由来を持つとされているのです。
新羅「脱解尼師今」始祖説によると、以下のようになります。
倭国東北一千里のところにある多婆那国王妃が妊娠ののち7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流された。やがて辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。箱が流れ着いたときに鵲(カササギ)そばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とした。長じて第2代南解次次雄娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた。
出典:wikipedia
「秦王国=辰韓」で、「辰韓→斯盧国→新羅」でした。そして「新羅」の王は、「多婆那国」王妃から生まれた大きな卵がまるで桃太郎のように流されて、老婆の手から取り出されて誕生したのでした。
こちらの記事では、秦王国=辰韓(のちの新羅)という結論を出したわけですが、辰韓のほうでも「昔氏」が関わっていました。
つまり、こういうことです。
七夕・新羅の始祖伝説で登場してくるカササギですが、昔+鳥で鵲であり、そのままの意味で解釈するなら「昔氏」を表していることになります。
武内宿爾は間接的に「昔氏」系統の人間です(蘇我氏の祖が武内宿爾であり、蘇我氏は昔氏)。
その武内宿禰は神功皇后の愛人。単純に考えれば、神功皇后とその相手を結びつけたのが武内宿禰だった、となりますが、この真偽は分かりません。
いずれにしろ、こころへんの繋がりは深いものがありますね。
秦王国で河童が祀られていた!
以下はwikipediaからの引用になります。
豊前国
大分県の中津市耶馬溪町に鎮座する雲八幡宮では、古くから「河童楽」という河童封じの神事(通称:河童まつり)が行われている。
それは河童を中央に囲み、楽を奏し、唐団扇(とううちわ)と言われる大きな団扇で仰ぐことにより荒ぶる河童の霊魂を鎮めるというもので、その後は河童の神通力によって村の平和は守られたと言い伝えられている。筑後国に伝授されたものと河童楽由来記は伝えるがいつ頃から始まったのか定かでなく、筑後にもその伝承が残っていない。現在、大分県無形民俗文化財として指定されており、少なくとも江戸中期ごろかそれ以前より毎年夏の例大祭に奉納されている。
「豊前国=豊国=秦王国」です。
秦王国には徐福が関わっている可能性があります。
徐福は完全にユダヤ人でした。くわしくは以下の記事を参照してください。
「徐福」伝説を徹底考察!徐福はユダヤ人で、秦氏だった?謎の人物像に迫る。
秦王国になんらかの形でユダヤ人が関わっていることは確かなことです。その秦王国で河童祭りの神事が行われていたという事実を踏まえれば、それは「ユダヤ人」と表すことはなくとも、「河童」という形でユダヤ人を祀っていたと解釈できるのです。
それが妖怪という形で、いまのいままで語り継がれてきたのでした。
河童はカッバーラの転化説というのもあるみたいですが、あながち当たってるかもしれませんね。
RAPT | 天皇と裏天皇と八咫烏。彼らこそが日本と世界を操る最大の秘密組織なのか。
もし、日本の天皇家に何かあった時に 天皇に代わるシステムがある。但し 彼らは普段は出てくる事は無い。名乗りも挙げぬ。いざ有事になった時に国を守る為に、それこそ神武以来から教育されてずっと残っている。その一部が忍者の伝説だったりする訳で、河童も天狗も その象徴の一つ。
魔方陣では、奇数は陽数、偶数は陰数です。これが陰陽道のきまりなのです。この9つの数字について陽数、つまり奇数だけを見てください。十字になっているのです。迦波羅、すなわちカッバーラのシンボル、裏ドーマンは、ずばり十字――陰陽道が九字を切るのに対して、迦波羅では十字を切るのです。
そういえば、河童が亀の甲羅を背負ってるのも意味深です。
調べるとこんな記事が出てきました。
「カゴメ」とは漢字で「籠目」とも書き、その言葉から三角形を二重に重ねた形をしたカゴメ印を想像する方も少なくありません。カゴメ印の由来には定説はなく、一説には竹で編んだ籠に見られる格子状の籠目の形や、六角形をした亀(カメ)の甲羅模様から、これらが原型となり、最終的に六芒星の形になったのではないかと言われています。そのカゴメ印は江戸時代、籠目紋として家紋にも使われました。さらに大正時代ではケチャップで有名なカゴメ株式会社の商標としても登録され、カゴメ印は大衆に広く知れ渡ることとなりました。
一方、カゴメ印とイスラエルを関連付けた話題にも注視する必要があります。イスラエル国旗に描かれているダビデの紋は、カゴメ印と同じ三角形を2重に重ねた六芒星です。この特異な形状の印をダビデの紋と共有するだけに、イスラエルにそのルーツがあるという説を支持する人も少なくないようです。さらに「籠の中の鳥」という表現が、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説もあります。旧約聖書には、その箱の中に神の息吹によって書かれた聖なる十戒の板が保管され、箱の上にはケルビムと呼ばれる鳥の形をした2体の護り神が向き合って、聖なる箱を守護したことが記載されています。そこに「かごめかごめ」との類似点を見出すことができるというのです。
謎解きは楽しいですね。
カトリックと河童
最後に、河童とカトリックとのつながりも紹介して終わりたいと思います。
やっぱりカトリックはユダヤ教の流れを汲んでる、ただの悪魔崇拝でした。
ザビエルは確かイエズス会でしたが、イエズス会とは表向きはカトリック教会の男子修道会ですが、今この日本では日本会議などとも絡んでいます。
くわしくはこちら。
また、今回書いた記事ですが、ユダヤ人に関して全体像を知りたい方は以下の動画がおすすめです。
悪人は真実をどこまでも隠したがるので、我々が暴くしかありません!
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