INRI リバイバルについて
・・・・・ 渡来人時代の 日本の大リバイバル、 "ユダヤ文化"ではなく 「福音」が いかに宣べ伝わったかについて
2017年7月3日
(参考) (→ 聖徳太子の謎 )
1. 東方キリスト教の宣教の歴史:
428年にコンスタンチノープルの大主教となったネストリウス(381?-451?、Νεστόριος)は、マリアが"神の母(聖母)"ではなく、マリアの神性を否定する "キリストの母"と呼ぶための説明として、イエス・キリストの「神性」と「人性」を区別する説を唱えたため(* 正教会やローマカトリックでは 「神性」のみの"単性論")、431年のエフェソス公会議で異端認定され、国外追放となった。 (彼自身はエジプトへ移動。 ネストリウスのこの説は 451年のカルケドン公会議でも異端とされた。)
ネストリウス派が異端認定された後、彼の弟子たちは帝国の東部で伝道を続け、次第にこれを支持する勢力が増え、5-6世紀にペルシャ、インド、7世紀には中国・朝鮮半島にまで拡大していった。(中国では 景教(光の信仰)と呼ばれた。)
・・・・・ * ネストリウス派の教義は、実質的に、異端ではない。 霊は神、たましいと体は人。(霊とたましいを区別すれば良いだけの事) 三位一体の否定については、後の景教碑では明らかに三位一体を認めている。・・・ 妙身(=御父)、分身(=御子、あるいは 応身)、聖霊は「三一淨風」、あるいは 証身 ∴ "霊が異なる悪質な"異端ではなく、教理が未成熟だっただけ。
5世紀後半からネストリウス派の弟子たちは、「アッシリア東方教会」と呼ばれ、ササン朝ペルシャ(226-651)のメソポタミア(今のイラク)で布教し、当時の皇帝たちはビザンツ帝国(正教会)と敵対していたので、異端視されていたネストリウス派は保護された。 ペルシャ領各地にキリスト教徒の共同体が作られ、特に、498年 ササン朝の首都のクテシフォン(バグダッドの近くのチグリス川東岸、東西交易の中心、BC2 パルティアからの歴代の古都)に 総主教が立てられた。
ササン朝ペルシャは、当初からゾロアスター教(拝火教)が国教だったが、概して キリスト教会とは両立していた。
その後、644年に イスラム教徒のアラブ人がササン朝を滅ぼし、ウマイヤ朝(661-750)(次のアッバース朝は750-1517)になると、彼らは低い扱いを受けるようになり、中央アジア、モンゴル、インド、唐などへ出て行くようになった。
南西インドでは、旧来からの「トマス派(使徒トマスが宣教)」と合流した。 つまり、教義の差など無かった。
また、中央アジアからモンゴルにかけては、後のチンギス・ハンの盟友のケレイト部族等、ネストリウス派・景教を信奉する北方遊牧民族が 長い間存続した。
ネストリウス派が中国に入った後の呼び名を「景教("光の信仰"の意)」という。 唐末期の"会昌の廃仏"(845)で地中に埋められた「景教碑(大秦景教流行中国碑、781作成、1623年?長安で発見)」によると、
唐の長安の太宗(598-649)が、 635年 アッシリア東方教会から遣わされた 阿羅本(アラボン)に、宰相を使いにやって出迎えるほどの歓待をし、638年 阿羅本が願い出た 唐国内における布教の許可を与え、資金援助までした。 (ただし、当時は外国の文化を取り入れることに熱心であり、太宗は同時期の645年に、玄奘三蔵がインドから持ち帰った仏典の漢訳もさせた。)
次の 高宗(628-683)の代になると、唐の各地に景寺を建てるよう詔勅が出された。(=景教の教会、 初期 波斯(ペルシャ)寺と呼ばれ、後に 大秦(東ローマ)寺と呼ばれた。) (ただし、景教碑に書かれている"大秦"とは「ユダヤ」のこと。)
敦煌の石室で発見された 初の漢訳聖書である「イエス・メシア経(序聴迷詩所経)」は636年に、 教義の解説書の「一神論」は641年に、それぞれ書かれた。 また、「景教碑(大秦景教流行中国碑)」は、781年に建てられた。 すなわち、景教は、唐の時代(618-907)のうちの200年もの間、中国仏教に負けず劣らず 立派に流行していたのである。
初期~中期の唐の皇帝は北方系が多く、外国の宗教にも寛容だったので、三夷教(景教、ゾロアスター教、マニ教)が仏教とともに認められた。 (ただし、ゾロアスター教は ペルシャ人の身内のみで、ほとんど布教はしなかったという。)
景教の 日本への伝達は、この「一神論」に含まれている「世尊布施論 第三」は、遣唐使の時代に写本が日本に持ち込まれ、現在も西本願寺に所蔵されている。内容はマタイの福音書6章の「山上の垂訓」の箇所で、後に 親鸞が仏教に取り入れ浄土教ができたという。 また E・A・ゴードン夫人(アイルランドの宗教研究家)は、空海所縁の高野山が 景教と関連が深いことを知り、その証拠として、自身の出資で 景教碑のレプリカを建てている。(1911年(明治44)、隣に夫人の墓がある。)
また、朝鮮半島にも景教は流入し、新羅の首都の慶州(キョンジュ)にある仏国寺(774-1407 一旦 廃寺、日帝時代に再建)の石窟から"石十字架(8-9世紀、統一新羅時代のもの)"が発見され(1956年)、ソウルの崇実大・韓国基督教博物館(紹介ビデオあり)に所蔵・展示されている。 新羅は当時仏教国でこの石窟から仏教典が多く出たが、景教も問題なく共存していたと考えられる。 伝統的に、朝鮮半島は中国での戦いに敗れた王族たちの逃亡地であり、慶州には 5-6世紀の時代の古墳が多数あり、非常に多くの出土品があり(20万点)、ローマのものと思われる遺物も多く出土している。(日本の古墳と違って盗掘されていない) すなわち、東ローマやペルシャとの東西交流が昔から盛んであり、その後に中国で流行った景教も 問題なく新羅に届いていたことになる。
2. 古代日本の渡来人の DNA:
秦氏は、記されている第一陣として、応神天皇の時代(応神16年≒377)に百済を経由して入ってきた120-127県(あがた)(数千人-1万人規模)について、日本書紀・応神記と 新撰姓氏録・諸蕃によると、弓月君(ゆづきのきみ)あるいは融通王と記され、秦の始皇帝の子孫を自称している。 弓月国は、中央アジアのキルギス(=マナセ族の国、メナシュ叙事詩)の北部にあった遊牧民の国であり、資治通鑑や新唐書にその名が出てくる。(→ 資料、弓月国・辰韓) 佐伯好郎の秦氏キルギス論とは少し異なる。
辰韓(秦韓、後の新羅)にも、BC2世紀~AD4世紀の長い時代にわたって、苦役を嫌った秦の逃亡民が馬韓へ亡命し、その東方に住み着いた記述がある。( ・・・・・ 魏書・東夷伝(3世紀)、後漢書・85・東夷列伝(5世紀)、梁書・新羅伝(7世紀・627年)) 彼らは言語も違う。(漢人(あやびと)・・・百済人の言語、 秦人(はたびと)・・・新羅人の言語(秦語、新羅語)、 新羅には漢字が無く(「無文字」)互いに意思疎通できなかった。)
そして、最近の中国 および 日本のDNA分析を突き合わせた結果、これが本当であることが知られてきた。
・ 秦の始皇帝のY染色体DNAが O2a2b1a1a(O-M133、旧 O3、子孫からの推定、2007)、また 徐福も同じ O2a2b1a1a(O-M133、徐州の徐氏 男性複数名、2010)
・ 秦河勝も同じ O2a2b1a1a (O-M133、東儀家、長宗我部の 子孫、2007)、 ∴ 男系でつながっている。 ・・・ 参考リンク、 探析中華民族的源流
一方、同じ 旧 O3であっても、 坂上田村麻呂 O2a1c であり、前漢の皇帝となった 劉邦 と同じであり、日本書紀・応神20年9月にある 坂上田村麻呂が後漢の霊帝の子孫である記事と一致。 Y染色体DNAは形質に影響しない"男系のしるし"だけの意味を持つ。
実質 形質に影響する mt-DNA(女系遺伝)では、
・ 秦の始皇帝の父は、碧眼(目が青い)で、体形ががっしりしていた と伝えられる。 ・・・ 青い目は 黒海周辺の1人の突然変異による。(緑目: 北欧、灰色目: ロシア)
・ BC762頃に甘粛省の犬丘(甘粛省南東部)に初めて秦が国となり、この甘粛省は現在でも J系統(J2・北部中東系、10%)のDNAがある地域。
・ 始皇帝陵の労務者墓(↓①)から出た50体の遺骨からは、T型(mt-DNA)、すなわち、ユーラシア西部の人種(T1: ペルシャ人(北西部)、クルド人、黒海周辺)のDNAが検出された。 ・・・中国通信社(2006) cf. 通常の西・南ヨーロッパ人は、H、HV系統などで、少し違う。
・ 兵馬俑の兵士(8000体、強そうに見せるため実物よりも大きく作ってある。 平均1.8m(max2.5m))の顔形は、漢人・遊牧民系の顔が多い? 王家と技術者は西欧系で、兵卒は黄河系漢人。(漢族、モンゴル、中央アジアを足して3で割ったような顔?) 秦は他の民族を巧みに利用した。(3.↓)
mt-DNA の T系統は、ユダヤ系のN1b2(< I )や 山東半島の斉の臨淄(りんし)人のN9a、 北方縄文人(日本固有種)のN9b とは分岐が若干異なり、ヨーロッパ人により近いので、少なくとも西洋人労務者がここに来ていたことになる。 始皇帝は男系では 黄河系漢族(旧O3)であるが、女系 あるいは そのグループは ペルシャ系の人種と考えられ、顔かたちや体形にそれが現れている。
韓半島には、逃亡王族のペルシャ系 + 東西交流によるヨーロッパ系(ラテン系) がいるが、日本へは 対馬の国司と大宰府を通して、王族のみフリーパスで通したので、ペルシャ系のみ。(王族についてきた建築技術者もペルシャ人。 ラテン系(H、HV等)はほとんどいない。)
∴ 秦河勝の舞踊の面と、厩戸王子(聖徳太子 ・・・ 蘇我氏が半分入っている)のいとこの蜂子王子の肖像画 に、ペルシャ系の彫の深い顔形が現れているので、秦氏も 蘇我氏も ペルシャ系の渡来人だったと考えられる。
(cf.1 参考 ・・・・ その他のアジア系の渡来人)
・ 藤原氏は、その直系と考えられる藤原清衡のミイラから O1b2a1a1であり、 O1b2(旧 O2b)の系統で、 多くの弥生人、 現在の韓国、中国東北、日本人 に分布する典型的なタイプ。
・ 殷は、Q1a2(帝辛の子孫) であり、 夏・匈奴(Q*、Q1a、Q1b1)や 周の貴族(Q1a1 (一般民はO2a、O3など))(参考)、南北アメリカの原住民(Q1a2a、 インディアン、アステカ(メキシコ)、インカ(ペルー))と同じであり、 発祥は アフガニスタンのパシュトゥン人(Q*(祖型) 16%、 Q全体で18.4%)。 中国のQ系統は、北の C3(モンゴル)と 南の 旧O3、旧O2b(漢族)に押されて、1%程度に消滅してしまった。 日本には、Q系統は北日本に0.1%程度。西日本にはいない。
(cf.2 参考 ・・・・ ユダヤ系(エフライムとマナセ?)の渡来人)
・ 臨淄(りんし)を首都とした斉は、太公望が羌族出身だったので 羌斉とも呼ばれた。羌斉(BC1046-386)の後は田斉(BC386-221)。(* 羌は、羊を飼う遊牧民全般という意味合いもあった。殷の時代には大量に生贄にされた。) 斉はBC221に秦に滅ぼされるまでは、ユダヤ・ヨーロッパ系のmt-DNA N9a だった。 N9aは 現在の山東: 3-4%、 韓国: 3-4%に分布しているので、多くの難民がこの時発生したと考えられる。(臨淄の遺骨の2500年前(羌斉の時代): ヨーロッパ系、2000年前: 中央アジア系、 現在: 漢族 ・・・ by. 2000年、東大:植田信太郎、国立遺伝学研究所:斎藤成也、中国科学院遺伝研究所:王瀝ら)
・ 北部九州弥生人の多くは、mt-DNAが D4であり、現代日本人(弥生系)の典型的タイプ。
・ 山口県西端の土井ヶ浜の弥生人は、12体/13体中 が 斉(BC770-BC221)の 臨淄人であり(長崎大・2009)、このユダヤ・西欧系の N9aは 本土日本(現代)で平均4.6%、九州弥生人で8%であるが、北九州から大和までベルト状に分布している( = すなわち後期弥生系の渡来人)ので、その地域では10%以上になると予想される。北海道、関東、沖縄にはいない。 東南アジア(特に、フィリピン、スマトラ島)には、秦の時代の逃れの民の末裔がいる。 N9aのDNA変異は、トルコとヨーロッパの中間ぐらい。
・ N9a は 極東のほかに、中央アジアにも分布し、キルギス(マナス叙事詩等 マナセ族の伝承あり → (3)解放後の歴史)近辺に分布。(ウズベキスタン 5%、 漢族(各地) 数%)
・ 一方、北海道縄文人(64%)の N9b (ほぼ日本固有種、アムール川下流の一部の民に10%、コロポックル?)は、現在の北海道から沖縄までほぼ均一に分布(平均2%)しているので、海洋民であり、入ってきた年代が古く、入り混じったことが示される。(日本海側(新潟、秋田)・色白の"○○美人"、沖縄に4%) 日本に来る前と コロポックル時代は、純血を守るべく、まとまって行動していたと思われる。
これらの N9a、N9b は、ユダヤ人の N1b2 (パレスチナ+エジプト 5%、 アシュケナジム・ユダヤ人 9.2%)に近いので、ヒクソス時代(エジプト人ではなくパレスチナの民が支配)のエジプトに売られ 祭司ポティフェラの娘アセナテと結婚した ヨセフの子、 マナセ(N9a)とエフライム(N9b)の可能性がある。(→ エジプト関連のDNA(3))
ただし、ユダヤ・オリジナルのJ2系統(男系)は日本にも東アジアにもほとんど無いので、母系の半分が渡来。(扶余国のあった満州あたりにJ2が数%、ベトナムにインドからのJ2、 扶余の人は体格が大きい。)
残念ながら、ユダヤ系のオリジナルの J系統(アブラハムの男系子孫)は、未だ 日本人に見出されていない。
・ 天皇家のDNAは、現在は基本的にD系統(D1b1a2(旧D2a1b))、しかし、神功(14仲哀の妻)/15応神 の時代に N9b(C3a-N9b、エフライム系の半分)の系統で 今の山口県あたりに住んでいた時から、D系統に入れ替わった可能性が大きいと考えられる。(天皇家から分岐した 源氏も、徳川家も、全く同じ D1b1a2) (→ (5)皇室のDNA )
(cf.3 参考 ・・・・ 海のシルクロードからの渡来人)
また、ローマ帝国によるエルサレム陥落(AD70)の時以来、南ユダが エドム人と共に アカバ湾のエツヨンゲベルから出航し、インド、東南アジア経由の海路で、(初期は警戒して、)沖縄・北九州などの島しょ部に移住した。(ソロモンの時代からインドにまで行っている。クジャクはインド産) それゆえ、沖縄にはフェニキア文化が残され、(少なくとも戦前まで)旧約・新約聖書の風習が色濃く残っていた。沖縄には N9a系統(マナセ族の渡来人文化)は無く、キリシタンのものでもない。 島民の伝承によれば、彼らは背の高い人々だったそうである。出雲人も背が高い。(→ 沖縄のフェニキア遺跡(下のほう)、 2.沖縄のユダヤ性)
「エドム(אֱדוֹם、EDWM)」が訛って 「出雲(いづも、EDoM → EDuMo、ず(Zu)ではない)」、 また「阿曇(あづみ)氏」となった。("海人族(かいじんぞく)"である阿曇は、散らされた後に"安曇(あづみ)"、"渥美(あつみ)"、"熱海(あたみ)"などとなった) 博多湾の志賀島(しかのしま)には 阿曇氏が交易の海洋民として弥生後期から活躍したが、後に大和朝廷に追放され 糸魚川から上って安曇の地に住み着いた。
北海道縄文人と同様に、糸魚川のヒスイの交易もやっていたと予想され、関東王国(日本国 ・・・ 「日本國は倭国の別種なり」(旧唐書))の時代(AD500年代)には、北斉(550-557)や高句麗などの騎馬民族との交易に関与していたらしいことが、さきたま古墳群(埼玉県・行田市)、観音塚古墳(高崎市)などの最近の発掘から明らかになっている。(武蔵国のこの時代の交易ルートは 群馬県から長野県への山越えを含む 東山道が主流で、そこに安曇野がある。 箱根越えは当時ほとんど通っていなく、貞観の富士山噴火(864-866)もあり、鎌倉時代まで通っていない。) 長野県南部と群馬県は 軍馬・馬の産地だった。
出雲の 荒神谷(こうじんや)遺跡からは日本の大部分の青銅器(銅鏡、銅鐸など)がここで発掘された。この青銅器文化は、元々のエドムの地で青銅が産出し、"クリーズ型銅剣"として、インドシナやインドネシアなどに伝わっている。 また、彼らの金属精錬技術によって、出雲、諏訪は、日本古来の鉄の産地である。(出雲:砂鉄と木炭、諏訪:褐鉄鉱と木炭)
また、諏訪には、守屋山(モリヤの山)の"ミ・イサク・チ祭(イサクを主にささげようとするが、御使いの停止命令により、犠牲から救う。 代わりに鹿の頭をささげる"御頭祭(おんとうさい)"・・・ 創世記22章と同じ伝承)"、"御柱祭(エドム人の偶像のアシェラ崇拝(木でできた女神)、アシェラ → ハシラ(柱))"という2つの奇祭がある。
伊勢神宮(外宮)の石灯籠には、ヘロデのマーク(エルサレム城壁のヘロデ門、丸に16枚の放射状の花弁、エドム人が信奉 = 菊花の紋)と ダビデの星(ユダヤ人が支持)の両方が刻まれている。 "カゴメマーク(六芒星)"・ダビデの星は、京都のシンボルでもある。 伊勢神宮には多くのユダヤ教の影響があり、イスラエルの主席ラビ、シュロモ・ゴレン氏(京都の世界宗教者会議でユダヤ教代表として1993年来日)が、国学院大学の聴講で質問したとき、彼が判別して、ミシュナーに書いてあるAD70年まで行われていた エルサレム神殿における儀式(パトロールの仕方、交代の仕方、交代の儀式、人数 など)が完全に一致していたという。 ・・・・・ ∴ 伊勢神宮は 「ユダヤ教」がルーツ。
3. 秦氏、蘇我氏の天皇家への関わり:
仏教以前の古代日本において、天皇家にかかわった一族としては、1つには、応神(15代)のときに渡来した 弓月君、のちの 秦氏であり、当初から天皇を補佐する伴造(とものみやつこ)や側近の立場で、技術や経済力を提供し、代々仕えてきた。 天王家の家系に入り込むことなく、常に傍らにいて忠実に仕えてきたのである。
秦氏のペルシャ人とは、先のDNAの考察から、弓月国の隣のキルギス人(=マナセ族)ではなく、秦の始皇帝の子孫の系統、すなわち、ヨーロッパ系に近いペルシャ東部の人々(mt-DNAの T系統)と思われる。 赤穂の大避(おおさけ、漢訳で大闢=「ダビデ」)神社に所蔵の 秦 河勝の面からして、鼻の高い、彫の深い西洋人顔となっている。
日本書紀にある、飛鳥寺を作った職人たちの名前は、明らかにペルシャ人たちの名前である。(→ 聖徳太子の謎 3.)
かなり後の 秦 伊侶具(はたのいろぐ)は、和銅4年(711年)に山城国で大神を祭ったとある(山城風土記・逸文)ので、この時期、武蔵国でもリバイバルしていたため、教会を建て キリスト教の神を祭った と考えられる。(4.↓)
『新撰姓氏録』記載の諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の時代に、また融通王が応神天皇の時代に、127県(あがた)の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化した、とある。(・・・ 融通王 = 弓月王)
もう一つの渡来人の流れとしては、蘇我氏であり、蘇我満智(そがのまち)が、雄略(21代)の時、5世紀後半に渡来し、彼の墓が蘇我氏最古の古墳(奈良県橿原市の新沢千塚古墳群の126号墳)と推定されている。 秦氏と違って、蘇我氏一族は天皇の血筋に入り込み、一時は 渡来人 すなわち ペルシャ人の血を半分持つ天皇たちが続いた。 その中で、穴穂部間人(あなほべのはしひと)は 波斯人(はしん=漢訳で「ペルシャの人」)の意味であり、また 稲目の父・高麗(こま)、祖父・韓子(からこ)は そのまま韓半島や高句麗の人という意味ではなく、外国人との混血を表す通称であり、ペルシャ人だったとするのが妥当と考えられる。 このペルシャ人というのは、ササン朝ペルシャ(226-651)であり、特に498年に首都クテシフォンに総主教が立てられて以降、アッシリア東方教会が盛んになった時代である。
蘇我氏のこの古墳から、ローマンガラス(成分がローマのナトロン、おそらくペルシャで加工されたもの)の器や (簡単に作れない)トンボ玉などが出土している。 また出羽三山神社にある 厩戸皇子のいとこの蜂子皇子(はちこのおうじ)の肖像画は、ペルシャ系の渡来人らしい彫の深い風貌である。(伝承にあるように、別に"苦労して"こんな顔になったわけではない。)
* 日本書紀では蘇我氏は仏教派の悪者にされているが、実はこのように ペルシャ人であり、全く仏教に関係のない人物たち(聖徳太子の記述も含めて)であったはずである。 日本書紀を書いた 藤原不比等がすべてを捏造したと考えられる。 (→ 聖徳太子の謎 1.)
秦氏の血筋を引く(キリスト者の)秦 河勝は、蘇我氏と天皇家の血を同時に引く 聖徳太子こと厩戸皇子と、ここで出会って、側近として仕えている。 日本書紀(第22巻・推古天皇)にさえ残っている厩戸皇子の "『及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然』 ・・・・ 壮に及りて、一に十人の訴を聞きて 失たず能く弁へたまひ、兼ねて未然(ゆくさき)のことを知りたまひき。" は、彼の超自然的な能力を表現している。 厩戸皇子はもちろん仏教徒ではない。また ゾロアスター教もこのようなしるしと不思議を行うことができない。 したがって、厩戸皇子はカリスマの教理を信じるクリスチャンである。(「厩戸」とは「馬小屋」のことで、イエスキリストの降誕に因んで付けられた名前と思われる。 すなわち母の穴穂部間人もキリスト者だった。)
前者は「知恵の言葉・知識の言葉」であり、後者は「預言」である。 これらはキリスト教信者に与えられる所の「聖霊の賜物」(Ⅰコリント12章)の表れであり、家庭教師役の秦河勝を通して カリスマ信仰を含む十全なキリスト教信仰が伝えられたと考えられる。
(天皇在位年代表)
4. 武蔵国と山城国の INRI リバイバル:
さて今までの下準備により、キリシタンよりもはるか以前の古代日本において、キリスト教が宣べ伝わり、聖霊の激しいわざが行われていたことが、いくつかの文献を紐解くに際し より分かりやすくなってきた。
(1) 武蔵国のINRI リバイバル:
● 六国史の第5の 日本文徳天皇実録・巻一嘉祥(かしょう)三年(850年)5月19日より、
『以武藏國奈良神列於官社。先是。彼國奏請。検古記。慶雲二年、此神放光如火熾。然其後。陸奧夷虜反亂。國發控弦。赴救陸奧。軍士載此神靈。奉以撃之。所向 無前。老弱在行。免於死傷。和銅四年神社之中。忽有湧泉。自然奔出。漑田六百餘町。民有疫癘。祷而癒。人命所繋不可不崇。從之。』
(読み方) 武蔵国の奈良神(ならのかみ)を以て官社(かんしゃ)に列す。是(こ)の先、彼(か)の国奏(もう)して請(ねが)えり、 「古記を検するに、慶雲(きょううん)二年(文武(むんむ)天皇・705年)此(こ)の神 光を放つこと火熾(かし)の如し。然(しか)して其の後、陸奥の夷虜(えみし)反乱せり。国 控弦(こうげん)を発し、陸奥に赴(おもむ)き救う。軍士此の神の霊(みたま)を載(たい)し、奉じて以(もち)て之を撃つ。向かう所に前無く、老若行に在りて、死傷を免れる。 和銅四年(元明天皇・711年)神社の中に、忽(たちま)ち湧泉有りて、自然に奔出し、田 六百余町を漑(うるお)す。 民に疫癘(えきれい)有れば、祷(いの)りて癒(い)ゆ。人命を繋ぐ所 崇(あが)めざるべからず」 と。 之に従う。
(解釈) 武蔵国奈良神(ならのかみ)の古い記録 ① 慶雲2年(705) この神から火のごとく光を放つ、 ② その後 陸奥国の蝦夷の反乱に際し 国は弓軍を遣わし、兵士らがこの神の霊を受け、この神に礼拝して 蝦夷を討ち平定。向かうところ敵無く、死傷者すらいなかった、 ③ 和銅4年(711) 神社の中に湧水、600町(1町=約110m四方)以上の田を潤す、 ④ 民に疫病が流行したが、祈祷によって皆 癒された。 人命を繁栄させる所であり、崇められるべき神である。
「私の宣教は、御霊と 御力の現れでした。」 (Ⅰコリント2:4)
・・・・ 聖霊の力こそ、他の宗教に無い特徴
文徳天皇実録には各地方の"平凡な"神道の神々の記述がある。しかし、この部分は 「不思議としるし」で満ちており、他の"神々"にはない非常にユニークな部分である。 この8世紀初頭の和銅年間を含む時期に、同じ武蔵国で同時に起こったこととしては、羊太夫の件である。
● 多胡碑(たごひ、高崎市吉井町池字御門、711年作成、1832年発掘、 多胡碑とその伝承)には、
『弁官符上野國片罡郡緑野郡甘 良郡并三郡内三百戸郡成給羊 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅 宣左中弁正五位下多治比真人 太政官二品穂積親王左太臣正二 位石上尊右太臣正二位藤原尊』
(現代語訳) 弁官局(諸国を管轄する事務局)からの命令。 上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊(人名・渡来人) に支配を任せる。 郡の名前は多胡郡(胡人(中国北方の民族))とせよ。 これは和銅4年3月9日甲寅(711年4月1日)に宣べられた。 左中弁・正五位下 多治比真人。 知太政官事・二品 穂積親王、 左大臣・正二位 石上麻呂、 右大臣・正二位 藤原不比等。
武蔵国・上野(こうずけ)の多胡郡の『多胡』とは、胡人(=渡来人)が多い という意味であり、すでにこの当時から 中国北部方面からの渡来人が多く住んでいた。(現在 この群馬県と 滋賀県(琵琶湖の京都寄り)に"多胡"姓が多い。) さきたま古墳群(埼玉県・行田市)等にあるように、関東王国(日本国、AD500年代)にすでに北斉や高句麗と交流があったことから、このことが説明できる。 多胡碑の字体は 北魏(386 - 534、五胡十六国を終わらせ華北を統一、鮮卑系(北の騎馬民族))のものといわれ、学術的に意義深いものである。 ((注意) ペルシャ系・秦氏ではないらしい。)
しかし、多胡碑の台座の下から十字架が、羊太夫の墓(多胡碑があった場所とは別)の石室から JNRIの銅板(古銅券、)が出たという江戸時代後期の伝承(甲子夜話 ↓)から、羊氏は景教のキリスト教信者だったと考えられる。 羊太夫を祭る"羊神社"に火を神聖視した伝承があるが、ゾロアスター教はほぼペルシャに限定され 人種が違うので、景教に関する「聖霊」の著しい働きの一つであると考えられる。( ・・・ 「聖霊の火」、「聖光(シャカイナ・グローリー)」、「地の塩、世の光」) そして、このことは 上記 文徳天皇実録の「奈良神」と同一である、と判断される。(いわゆる INRI リバイバル)
天武天皇の時代(40代、672-686年)に活躍した、この羊太夫は、多胡郡の指導者に任命され、自然銅(ニギアカガネ)(秩父市・黒谷にある和銅遺跡)を用いて 「和同開珎」(和銅元年8月10日、708年8月29日、5月に銀銭・8月に銅銭)の鋳造を行い、また 人々に養蚕を伝えた。 当時の皇族の皇子が数十戸賜る程度なのに対し、羊氏が臣下程度の身分であるにもかかわらず300戸与えられたのは、かなり大きな郡を任せられたことになる。 しかし後に、朝廷のいる大和に出向かなくなった理由で謀反の嫌疑がかけられ、同じ藤原政権によって滅ぼされたという。
・ 『甲子夜話(かっしやわ)5』六十三巻(21)・・・by.長崎の平戸の大名、松浦静山 ・・・ 〔二十一〕或人曰く。上州多胡郡の碑にある羊〔人名〕は、蓋し遣唐の人なり。 後其墓中より〔墓中とは碑下(=多胡碑の下)を云や。又羊の墓と云もの別にあるや〕 十字架を出だす。 是を「イサアカテツチンギ」〔先年舶来の紅毛人〕に長崎屋の旅舎にして、上州の御代官より示せしに、「テツチンギ」 是を鑑定せよとは甚不審なりと言しと 〔この意は、此物は天主教の所用。 吾邦制禁のものなる故なり〕。 ・・・・
・ 続編6の七十三巻(17) ・・・ JNRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石櫃を堀出す。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書「コルネーキ」を閲するに、耶蘇刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す。因て蛮文通達の人に憑て彼邦の語を糺すに、其義更に審にせずと。多胡碑の文、和銅四年三月と有り。この年は元明の朝にして、唐の睿宗の景雲二年なり。 今天保三年を距ること千百廿二年。されば彼蛮物は何なる者ぞ。古銅券と横架の文と同じきこと、疑ふべく、又訝るべき者歟。前編六十三巻に、この碑下より十字架を覩出せしことを挙ぐ。蓋是と相応ずるとことならん。尚識者の考を俟つ。
(解釈) 群馬県の多胡碑の傍に石槨が発掘され、そこにJNRIの4文字が刻まれた古銅券が見つかった。これをオランダの書物(コルネーキは辞書と思われます)で調べた者の話によると、磔刑(たっけい)にされたキリストの頭上に名札の様に付けられた銅の板に書かれている文字で、意味は「ナザレのイエス ユダヤの王」の頭文字4文字を取ったものであることがわかった。この年、和銅四年(711年)は元明天皇の御代で、中国では睿宗の景雲二年である。今は天保三年(1832年)だから、1122年目にあたる。それは一体どういうもの?
・ INRI あるいは JNRI とは、十字架の上に掲げられた罪状書きの文: Jesus Nazarenus Rex Iudaeorum 「ユダヤの王、ナザレのイエス」 の意味。 cf. 後のキリシタン時代のローマカトリックは、 IHS(人類の救世主イエス)、IHC(人類の救世主キリスト)などを使用で異なる。
・ 漢字が使われる以前から「イナリ」であったとされ、イナリには、INARIが転化したという説は、千葉大学准教授で景教の研究家であるケン・ジョセフ氏などが提唱。(シニア・ジョセフ・ケン: 京都インターナショナル・ユニバーシティ客員教授。来日以来50年。 ジュニア・ジョセフ・ケン: 助世夫健。1957年、ケン・ジョセフ・シニアの息子として東京に生まれる。米国カリフォルニア州バイオラ大学卒業。日本の古代史研究家、秦氏研究家、景教研究科、キリシタン研究家として活躍。千葉大学准教授。)
・ 伊奈利は、単に INRIに対する万葉仮名の当て字であるのみならず、伊(人偏に尹(神の杖)で、聖職者、治める者)で、天地の間に立って調和させる方 = イエス・キリスト) + 奈(示: 高杯(丁)の上に物(一)を乗せて示す、 不:高杯の上に物があらず、 奈: 木を高杯に乗せて示す = 十字架の示し)
(2) 関東への渡来人入植の歴史:
・ AD500年代 関東王国(日本国・by.旧唐書) 関東王国・北斉と高句麗と交流、利根川流域の王国。 武蔵国造の乱の時代、安閑天皇(27代、古墳時代後期・534年?・天皇陵からペルシャ製カットグラス碗) ・・・ この時点ではまだキリスト教は来ていない(盗掘されていない墳墓からそれらしきものは出ていない)
・ 7世紀のアジアは唐と新羅の2大勢力になり、統一新羅(676-935)に変わる頃、大和王権が多くの 百済、高句麗からの渡来人を帰化させ、関東の未開の地に入植させた。(663、668)
・ 666年 百済の男女2000人日本に帰化
・ 705年- 武蔵国に『奈良神』リバイバル
・ 711年 羊氏が 片岡(高崎市あたり)、緑野(みどの、高崎、藤岡)、甘良(かんら、今の甘楽(かんら)郡、 韓からの渡来人が多く住んだ)の 多胡郡の地を任された。(多胡碑)
・ 716年 駿河国などにいた渡来人1799人が、高麗(こま)郡(川越、入間、鶴ヶ島あたり)に移動させられた。 ・・・ この時は 武蔵国は、キリスト信仰だったと思われる。
(ここでキリスト教迫害、地域の仏教化に転じる)
・ 元正天皇(44代、美貌の女帝、半分蘇我氏が入った43代元明女帝の娘、680-748)の頃、藤原氏により、謀反の疑いをかけられた 羊氏の討伐のため、中国(広島)と南海道(紀伊、四国)から10万(?)の騎兵が派遣され、東山道を経て 碓氷峠から上野・武蔵国に下ってきた。
・ 758年 (仏教を信奉する地)新羅からの仏教の僧尼らが 新羅(しらぎ)郡(今の和光、志木、新座あたり)に入植させられ、平安時代(794-)から 新座(にいくら)郡となった。 民衆支配のため、武蔵国を強制的に仏教に塗り替えようとする移入政策が行われた。
(3) 山城国の伊奈利神:
山城国風土記(逸文)より、秦 伊侶具(伊呂具、はたのいろぐ)は、これまた武蔵国・上野国リバイバルと同時期の、和銅4年(711年)、伊奈利(いなり)の大神を祭った、という記述がある。
"秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐのはたのきみ)は裕福な一族だった。 その裕福なことを伊呂具は自慢し、いつも偉そうにしていた。 ある日、伊呂具が餅を的にして矢を射ったところ、その餅は白鳥になって飛び去り、山頂に降り立った。 すると不思議なことに、その地にい根が生えてきた。 それからは、伊呂具の家運は傾き始め、伊呂具はこれまでの傲慢を反省し、稲が生えた地に『伊弥奈利』の神社を祀った。"("伊奈利社の縁起"として、山城風土記の一部が引用されている)
また、"秦氏・中家忌寸(ナカツイエノイミキ)等の遠祖・伊侶具(イログ)は稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいた。ある時、餅を使って的として弓で射たら、餅は白い鳥になって飛び去って山の峰に留まり、その白鳥が化して稲が生ひ出でたので、これを社名とした。
その子孫の代になって、先祖の過ちを悔いて、社の木を根こじに引き抜いて家に植えてこれを祀った。いまその木を植えて根つけば福が授かり、枯れると福はない、という"(大意) (by.山城国風土記逸文・伊奈利の社条) ・・・ 伊侶具から9代目で 中家忌寸
・・・・・ 欽明(29代、540?-)が幼少の頃、夢で示され、秦 大津父(はたのおおつち、山背国紀伊郡深草里)が側近の伴造(とものみやつこ)になった。 奈良初期の 元明(43代、女帝)の命令で 和銅6年(713年)に 各地の『風土記』が編纂された。 山城風土記もその一つで、現在は 逸文しか残っていない。
山城国では、伊奈利は元々 秦氏の神で、711年(和銅4))秦伊侶具がこの伊奈利の大神を祭った。 この秦氏の大神とは、秦氏は技術集団だったので 農業の神を祀ることは考えにくく、秦氏がペルシャ系であったことから 東方キリスト教(景教)の神と考えられる。
一方、"稲荷"の字が使われるようになったのは菅原道真の類聚国史(るいじゅこくし、827、六国史の再編版)が初めてであり、それ以前は「伊奈利」と呼ばれていた。
さらに、稲荷神社に特徴的な"キツネの偶像"が入ったのはずっと後で、鎌倉時代に神仏習合され、鎌倉後期から室町初期の"稲荷大明神流記(or稲荷流記)"(14世紀ごろ成立)に白狐の伝説として初めて出てくる。 したがって、時間的に明らかに、キリスト教会とは全く別のもの、ということになる。 その後、応仁の乱で京都の稲荷は一度焼失し、豊臣秀吉が母の病のために伏見稲荷を建て、当時の楼門が今も残ってる。
(cf. 出雲風土記は残っているが、神社の羅列が付け加えられている。 これは1-2世紀のエドム人の偶像崇拝、ユダのユダヤ教から発して 変遷した神社と思われる。)
* 千葉県の東の端にある古い稲荷神社: 霊写真(下のほう)、悪霊ども(オーブ)によって汚れている
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