新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました
ベルサイユ宮殿は改築につぐ改築が行われているので、建物以外、内装などは全くの別物になっている。実際、近年の観光でも行くたびにあちこち変化が見られる。
例えば王の内庭にできた金の柵も2005年にはまだできていない。中にあったルイ14世の騎馬像も移動されている。全くもってそれは近年の観光用にしつられえられたものなのである。
実際、フランスの場合1789年、フランス革命が起きた為に当然王宮や王侯貴族の家屋敷までが破壊され略奪うけている。ハプスブルグ家が歴代のコレクションを残しているのと違い、フランスの場合はほとんど何も残されてはいないのだ。
フォンテーヌブローの所でも触れたが、ナポレオンが皇帝になった時に宮殿は修復されそれなりに直されたが、歴史的な復元がされた訳ではない。
最近になってルイ14世時代の王宮がもっと壮大なものであった事が解ってきたが、そう考えると、今のベルサイユはいったいどの時代に合わされているのか? と、疑問に思う。
日本人の人気スポットはマリー・アントワネットの寝室であるが、それも「王妃の寝室」とタイトルされている。歴代の王妃が使用する部屋の場所は確かにそこだが、内装はそれぞれであったはず。
妃の部屋のテキスタイルは一応ルイ16世時代に寄せているのだろうが、写真なんかあるわけではないからベルサイユの場合、完全に当時を想像した復元と言う事になるのだろう。つまりベルサイユ宮殿の場合、実物でなくセット物感は否めない。
さて、そんな前振りしましたが、今回は「鏡の回廊」の前後に位置する二つの角(かど)部屋の紹介です。
新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
戦争の間(The Salon of War)
画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)
平和の間(The Peace Salon)
ルイ15世のメダリオン(medallion)
下は位置確認です。ウィキメディアのパノラマ写真を借りてきました。中に書き込みしています。
庭からの宮殿。
右側ピンク 平和の間(The Peace Salon)
中のブルー 鏡の回廊(Hall of Mirrors)
左側ピンク 戦争の間(The Salon of War)
地図も位置を確認して下さい。下の図は宮殿正面側からです。
鏡の間の向かって右端が戦争の間で、左の端が平和の間と呼ばれています。
戦争の間の側(右翼)が王様の寝所などの領域で、左の平和の間の側(左翼)が王妃の寝所などの領域に分けられています。鏡の間の向こう側が、広大なベルサイユの庭園がある側です。
※ 団体の観光ルートでは正面右のガブリエル棟から入り、王の間の領域を抜けて、鏡の間に入り、王妃の間の領域を見学するコースになっていますが、個人の入口は反対の旧棟かららしいです。
因みに2018年頃に王の内庭の地下に大きなトイレが設置され混雑緩和になったようです。
戦争の間(The Salon of War)
1678年マンサールがこの部屋の建設に着手し、装飾は画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)
1679年2月頃から造営。天井はクーポラ仕立て
壁には大理石が貼られ、その上に金箔青銅の武具装飾と、武器類が流れるようなデザイン飾りとしてとり付けられ、天井にはル・ブランにより、勝利の女神に取り巻かれる戦勝国フランスの姿が描かれている。
主題は、「ニメーグ和平における軍隊の勝利」
そもそも「鏡の間」自体がルイ14世の戦争の勝利など功績が描かれ、栄誉をたたえる構成図案になっている。
人が多いので全体の写真を撮影するのは個人では不可能です。
下の写真のみ画像は悪いですが、参考に本からです。
ベルサイユで発行している公式の写真集からであるが、この写真ではレリーフ下のブロンズはそのまま。近年、金箔を貼ったようです。
敵を踏みつけにしているルイ14世。
上に金箔の貼られた二人の噂の女神ペーメ。
楕円形の化粧漆喰朝浮き彫りで表現されています。コワズヴォクスの傑作です。
花鎖につながれた捕らわれの人とその下に歴史書を書いたいるクリオー
天井四隅にはフランスの紋章がレリーフされている。
画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)
シャルル・ル・ブランはイタリアのバロック絵画をフランスに伝えた当時のバロック第一人者シモン・ヴーエ(Simon Vouet)(1590年~1649年)の工房で学び、1642~1646年までイタリアに留学。
ニコラ・プッサンにも師事もしているらしい。
帰国後、絵画アカデミーの設立に参加し、ルイ14世の首席宮廷画家として、ベルサイユ宮殿の装飾事業の指揮をとる事になる。
つまりルイ14世のバロックはほぼシャルル・ル・ブランの作品と言う事になる。
傍ら王立ゴブラン織りの製作所の長として宮殿に飾るタペストリーを制作したり、家具、銀器などの工芸品制作の監督にもあたっている。フランス美術界に君臨した画家なのである。
※ フランスのゴブラン織りについては、サンカントネール美術館2の中「フランドルのタペストリーとフランスのゴブラン織り」で触れています。
リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)
平和の間(The Peace Salon)
戦争の間と対になっているこの部屋は、装飾も大理石と鏡と金箔青銅と言う所では一致しています。
テーマは平和。欧州に平和をもたらすルイ15世のメダリオン(medallion)がメインになった部屋です。
鏡の間を出て、王妃の宮殿側に入る最初のこの部屋は、1680年に完成したものですが、1710年から王妃の宮殿の一部として、娯楽室として使われた。何しろ隣は王妃のベッドルームなので・・。
後世の妃によってこの部屋の為の装飾が足されたりしているそうです。
下の写真のみ本からの出典です。画像は悪いですが、参考に・・。
大理石の暖炉の上には楕円のルモワンヌの絵(1729年制作)が飾られている。
建物の構成だけでなく、内装までシンメトリー(左右対称主義)に作られている。
ルイ15世のメダリオン(medallion)
欧州に平和をもたらすルイ15世の図は、19才の王がヨーロッパにオリーブを差し出し、その王の上には慈愛の女神と多産の女神が舞う。また生まれたばかりの王の双子の王女も描かれ、王家の繁栄もほのめかしている。
天井画も、シャルル・ル・ブラン。
平和の女神が先導し、四羽のキジバトに引かせた馬車に乗って空中を渡るフランス。そのフランスに不滅の輪を冠せているのが栄光の女神。
また、フランスには婚姻の神が添っている。平和条約を締結した事を王家同士の結婚に例えて表現しているらしい。
ベルサイユの写真だけで数千枚。それを部屋毎に分類せざるおえなくなりました。写真は一度の撮影ではないからです。前の時も大変でしたが、あれからさらに写真が増えています。
途中、カーテンの色が変わっている事にも気づきました。
内装の壁のテキスタイルも微妙に変わっていそうですし、調度品や絵画は大きく入れ替わりしています。
何しろ昔はナポレオンの部屋など無かったような・・。
最もベルサイユで飾られている額絵に関しては、ほぼレプリカです。本物はルーブル美術館のみならず、ウイーン美術史美術館所蔵の物もありました。
つづく
リンク ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
Back number
削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。
リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)
新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)
リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情
リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)
リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)
lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里
マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。
リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿
リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃
リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
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