2023年2月9日木曜日

日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く (ブルーバックス) | 播田 安弘 |本 | 通販 | Amazon


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2022年7月1日に日本でレビュー済み 
Amazonで購入
(邪馬台国に関心があり本書を購入したので第一章を中心にレビュー)

第一章 邪馬台国はどこにあったのか
卑弥呼の船
著者は卑弥呼が、朝鮮半島や中国との往来に使用した船について推測している。航海実験に使用された30人乗りの船(野生号)が近いらしい。これらの船を何艘か連ねて往来したのだろう。著者はこのレベルの船でも対馬海流をうまく利用すれば日本・朝鮮半島間の対馬海峡の往来は可能とのこと。しかし、このような船で何割くらいの人が無事に往復できたのだろうか。一方で中国の使節はどのような船で日本に来たのだろう。本書には書かれていないが疑問は尽きない。

邪馬台国
著者は、天照大御神は神話における卑弥呼の反映であるとし、天岩戸神話は卑弥呼の死亡した頃に起きた皆既日食を反映したものとの解釈である。そして「日食」「魏志倭人伝のルート」「遺跡・出土品」「神話」「人口」「朝鮮交易」の6つの要素を分析した結論として卑弥呼生存時の邪馬台国の所在地を北九州とし、そのころは大和の纏向にも政権があったが卑弥呼没後に邪馬台国が大和に東遷し纏向の政権を併合したと結論する。これらの考えはおおむね歴史家の安本美典氏の考えに近い。しかし、邪馬台国北九州論者の中では逆に北九州の邪馬台国が大和の政権に4世紀頃に征服吸収されたという意見のほうが多いし、邪馬台国が国家レベルで東遷したとの考古学証拠は得られていない。

大和へのルート
著者は邪馬台国大和説の場合の北九州から大和へのルートについては一般的に想定されている瀬戸内海ルートより日本海ルートの方がむしろ航海上の安全性が高いと指摘している。邪馬台国大和説ならばその通りだと思う。しかし本書では触れていないが根本的な問題としてなぜ「魏志倭人伝」に北九州から大和への詳細なルートの記述がないのか。「魏志倭人伝」は中国から日本に来た使節の本国に対する報告書のはずである。倭人(日本人)の風俗の記述はあるのにもっと重要な詳細ルートの記述がないのはおかしい。著者は卑弥呼時代の邪馬台国については北九州説なのでこのルートは邪馬台国東遷以降のルートと言う解釈のようであるがすっきりしない。

卑弥呼時代の人口
著者は国立民族博物館の小山修三氏の著述を元に弥生時代の日本の人口を約59万人とし、この数を1800年前すなわち卑弥呼時代の推定値としている。しかし、この推定値は余りにも小さすぎる。一方、小山氏の著述後に出版された「邪馬台国人口論」(1991年)で安本美典氏は卑弥呼時代の日本の人口を300万人から400万人以上と推定しているが、さすがにこの値は過大である。実際はその半分の150万人から200万人以上が卑弥呼時代の日本の人口として妥当と思う。

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