2022年5月15日日曜日

殺人刀活人剣とは - コトバンク 『無門関』『碧巌録』

鈴木大拙は『禅と日本文化』(1940年)「第四章 禅と剣道」で沢庵の書籍を紹介している。

https://twitter.com/_luminous_woman/status/1525801599414960128?s=21&t=RkrC0jIY21r8sEXB2X_j-w


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沢庵『不動智神妙録』

応無レ所レ住、而生二其心一


「 鎌倉の無学禅師、大唐の乱に捕へられて、切らるゝ時に、電光影裏斬二春風一といふ偈を作りたれば、太刀をば捨てて走りたると也。無学の心は、太刀をひらりと振上げたるは稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も、何の念も、ないぞ。打つ刀も心はなし。切る人も心はなし。切らるゝ我も心はなし。切る人も空、太刀も空、打たるゝ我も空なれば、打つ人も人にあらず。打つ太刀も太刀にあらず。打たるゝ我も、稲妻のぴかりとする内に、春の空を吹く風の如くなり。一切止らぬ心なり。風を切つたのは、太刀に覚えもあるまいぞ。かやうに心を忘れ切つて、万の事をするが、上手の位なり。

 舞を舞へば、手に扇を取り、足を踏む。其手足をよくせむ、舞を能く舞はむと思ひて、忘れきらねば、上手とは申されず候。未だ手足に心止らば、業は皆面白かるまじ。悉皆、心を捨てきらずして、する所作は皆悪敷候。 」



さらに、

公案殺人刀活人剣の解説が前置きにある。



「禅は活人剣と殺人刀ということを語る。そのいずれを、いついかなる風に、使うべきかを知るのは、すぐれた禅匠の働きである。文珠菩薩は、右手に剣を、左手に経典をもつ。これは予言者マホメットを想起させる。しかし、文珠菩薩の聖なる剣は、生きものを殺すためではなくて、われわれ自身の貪慾・瞋恚・愚癡を殺すためである。それはわれわれに向って擬せられる。こうするのは、われわれの内部にあるものの反映であるところの外界の世界も、また、貪慾・瞋恚・愚癡から自由にされるからである。」

これらを好戦的なものとして語るのは無意識的な悪意がある。

 
 
ジョージ
⁦‪@jo2geor2‬⁩
鈴木大拙の戦争協力について語るジジェクの動画に字幕をつけました pic.twitter.com/56DWCPbPnA
 
2022/04/30 15:40
 
 

https://twitter.com/jo2geor2/status/1520292043498876928?s=21



『禅と戦争』(ヴィクトリア、邦訳旧版180頁)に「…活人剣」なる公案(『無門関』『碧巌録』)が出てくる。ジジェクはその公案を説明したのだろう。1938年以降鈴木はそこの公案を好戦的国家主義的に解釈し広めたとされる。鈴木大拙は神秘主義者と考えられる場合が多いが鈴木は論理学の限界を指摘している。


ヴィクトリアも書いているが、1941年の講演最後に対アメリカには生産力で敵わないから現実的になれと鈴木大拙が言ったと伝わる。


多分ジジェクは鈴木大拙と沢庵を間違えている。


Christianophobia: A Faith Under Attack (English Edition) 


understood by contemporary historians such as Michael Jerryson and Mark Juergensmeyer, editors of the scholarly collection Buddhist Warfare.6 They quote the seventeenth-century Zen Master Takuan: 


The uplifted sword has no will of its own, it is all of emptiness. It is like a flash of lightning. The man who is about to be struck down is also of emptiness, and so is the one who wields the sword. None of them [is] possessed of a mind that has any substantiality. As each of them is of emptiness and has no ‘mind’, the striking man is not a man, the sword in his hands is not a sword and the ‘I’ who is about to be struck down is like the splitting of the spring breeze in a flash of lighting.7 


In the same book another scholar, Brian Daizen Victoria, traces a direct link between Takuan’s writings and the ‘Soldier-Zen’ model used for military training during the Second Sino-Japanese War (1937–1945) in which the genocide of 20 million Chinese took place. Victoria also points a finger of blame at D.T. Suzuki (1870–1966), the leading exponent of Zen to Western audiences during the past century, who endorsed the ‘unity of Zen and the sword’. The militarism of Takuan and Suzuki is not to be dismissed as exceptional. Among the more striking pieces of evidence for this are the texts that reanimate and transplant the Buddha into startling situations – including the Heap of Jewels sutra, in which he is threatened with a sword by his disciple, Manjushri. The Buddha is represented as praising his acolyte on the grounds that ‘there isn’t any more of me than there is of anyone else. If Manjushri were to kill the Buddha it would have been a right killing.’ There is also the notorious case of the ninth-century Chinese monk Yi-hiuan, who urged those he addressed to ‘kill everything you encounter, internally as well as externally! Kill the Buddha! Kill your father and mother! Kill your closest friends!’.


現代の歴史家であるマイケル・ジェリーソンやマーク・ユルゲンスマイヤー(Buddhaist Warfareの編者)は、17世紀の禅僧、たくあんを引用して、次のように理解している。


振り上げられた剣はそれ自身の意志を持たず、すべて空である。それは稲妻の閃光のようなものだ。打たれようとする者も虚であり、剣を振るう者も虚である。いずれも実体のある心を持っていない。それぞれが空であり「心」を持たないので、打つ者は人ではなく、手に持つ剣は剣ではなく、打たれようとする「私」は春風が閃光で裂けるようなものである7


同じ本の中で、別の学者であるブライアン・ダイゼン・ヴィクトリアは、タクアンの著作と、2000万人の中国人を大量虐殺した日中戦争(1937-1945)の軍事訓練に用いられた「兵士禅」モデルとの間に直接的なつながりがあることを突き止めている。ヴィクトリアはまた、「禅と剣の一体化」を支持した、前世紀に西洋の聴衆に禅を伝えた第一人者、鈴木大拙(1870-1966)にも非難の指をくわえている。タクアンとスズキの軍国主義を例外として片付けることはできない。その証拠に、釈迦は弟子の文殊菩薩に剣で脅されている『宝蔵経』など、驚くような状況に生まれ変わり、移植されたテキストがある。仏陀は弟子の文殊菩薩に剣で脅され、「私は他の誰よりも存在しない」と賞賛している。もし文殊菩薩が仏陀を殺したとしたら、それは正しい殺し方であったろう」。また、9世紀の中国の僧侶、義淵の悪名高い例もある。義淵は、演説した人々に「内面も外面も、出会うものすべてを殺せ!」と迫った。仏陀を殺せ。あなたの父と母を殺しなさい。親しい友人を殺せ!』。


6. Michael Jerryson and Mark Juergensmeyer (eds), Buddhist Warfare (Oxford University Press, 2010). 

7. Katherine Wharton, review of Buddhist Warfare in the TLS, 1 October 2010.


佐藤錬太郎 著2001 — 剣禅一如沢庵﹃不動智神妙録﹄を読む﹂を参照されたい。 写本の第四は、臨会臨書館所蔵、白河 ... 早き一挙は稲妻も通ずる事なく、軽き事は急に吹シ.
117 ページ·6 MB

‪沢庵宗彭『不動智神妙録』古写本三種・『太阿記』古写本一種

Author(s)佐藤, 錬太郎

Citation北海道大学文学研究科紀要, 103, 24-139 Issue Date2001-03-01 Doc URLhttp://hdl.handle.net/2115/33992‬

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33992/1/103_PL24-139.pdf

たくあんの話 | 臨済宗大本山 円覚寺

沢庵和尚には、『不動智神妙録』という著書があります。

私は中学生の頃、お寺の坐禅会で、この本を学びました。思いで深い書物であります。

そのなかにも仏光國師のことが出ています。

「鎌倉の無学禅師、大唐の乱に捕へられて切らるる時に、
「電光影裏斬春風」といふ偈を作りたれば、太刀をば捨てて走りたると也。」

と書かれています。

仏光国師が南宋におられた頃、元の兵士が襲ってきたのですが、泰然と坐って、漢詩を詠んだのでした。

その中の一句であります。

沢庵和尚は、

「無学の心は、太刀をひらりと振上げたるは、稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も何の念もないぞ、打つ刀も心にはなし、切る人も心はなし、切らるる我も心はなし、切る人も空、太刀も空、打たるる我も稲妻のぴかり とする内に、春の空を吹く風を切る如くなり、一切止らぬ心なり。

風を切ったのは、太刀に覚えもあるまいぞ」

というのであります。

切る人も空、切られる者もまた空、切る太刀も空、稲妻がピカッと光るうちに、春の空を吹く風を切るようなものだというのであります。


不動智神妙録「解」武術と禅 (武術暗器研究会-秋榴ゆう-ebook


https://www.amazon.co.jp/dp/B01N5RT30W/


鎌倉の無学禅師、大唐の乱に捕へられて切らるる時に、 

  「電光影裏斬春風」といふ偈を作りたれば、太刀をば捨てて走りたると也。  

無学の心は、太刀をひらりと振上げたるは、稲妻の如く電光のぴかりとする間、何の心も何の念もないぞ、 打つ刀も心にはなし、  

切る人も心はなし、切らるる我も心はなし、切る人も空、太刀も空、打たるる我も稲妻のぴかりとする内に、春の空を吹く風を切る如くなり、一切止らぬ心なり。  

風を切ったのは、太刀に覚えもあるまいぞ、

かように心を忘れ切って、萬の事をするが上手の位なり。

舞を舞へば、手に扇を取り足を踏む、其手足をよくせむ、舞を能く舞はむと思いて、忘れきらねば、上手とは申されず候。  

未だ手足に心止らば、業は皆面白かるまじ。  

悉皆心を捨てきらずしてする所作は皆、悪敷き候。


この章の一節で「電光影裏斬春風」の説明がありますが(少し解釈は違いますが)これは文に述べられている内容とは別に、  剣を打ちおろすその瞬間には無を生ずるということです。  

敵に向って銃を撃つとき、照準を合わせ距離を計算し相手の出方をうかがい、撃つべきか撃たないべきか、今か後かと思い悩み緊張し、引き金を引きます。  引き金を引くまでは煩悶すれど弾丸を発射してしまえばその間は何もこちらの意思や動作は介在できません。  

それと同じく剣撃を放てば、その瞬間は無我になります。  つまりはその手前までが心法では問題ということです。



https://books.google.com/books/about/昭和の宿命を見つめた眼.html?hl=ja&id=wg0wCAAAQBAJ


昭和の宿命を見つめた眼: 父・高坂正顕と兄・高坂正堯

著者: 高坂節三


 多感な幼年時代を、異国満州で送った父は、当時の人たちの中では「生きた海外」に関心が強いほうではなかったかと想像する。恩師西田幾多郎の生涯の友、鈴木大拙は、大東亜戦争突入の三カ月ほど前に、京都大学で「禅と日本文化」の講演をしている。話がひととおり終わったあとの、 
〈日本はアメリカの工業生産力の恐るべき実体を、もっと冷静に正確に評価していなければならない。今日の戦争は昔のように戦略や戦術や豪胆や勇敢だけで決着するものではなく、機械力とその生産力に負うところが多いのだから〉(日高第四郎「乃木大将と鈴木大拙先生の印象及び思い出」)  
 という言葉にも、人一倍強い関心をもって耳を傾けたに違いない。



禅と戦争 単行本 – 2015/12/8 

Zen at War

21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 - 18 ページ

Zen Terror in Prewar Japan: Portrait of an Assassin - 223 ページ

Christianophobia: A Faith Under Attack - 175 ページ

The Ideologies of Japanese Tea: Subjectivity, Transience and ...


殺人刀活人剣とは - コトバンク 〔無門関〕


https://kotobank.jp/word/殺人刀活人剣-548441 

せつにんとうかつにんけん セツニンタウクヮツニンケン【殺人刀活人剣】 

 〘名〙 禅で、妄情を断ち切る禅者のはたらきを刀剣にたとえていう。 


幸若・満仲(室町末近世初)「殺人刀活人剣、みな一念のうちなり」 〔無門関〕 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 デジタル大辞泉「殺人刀活人剣」の解説 


せつにんとうかつにんけん〔セツニンタウクワツニンケン〕【殺人刀活人剣】 


禅宗で、師が修行者の智慧のはたらきをとどめ、修行の完成に向かって自由自在に導くはたらきを活殺自在の剣にたとえた言葉。

 


「活人剣」と「殺人刀」の変遷 - Togetter



https://togetter.com/li/854939


神無月久音 @k_hisane

時代の流れと共に意味が変遷していったものといえば、「活人剣」もそうで砂。現代の世間で通じる「活人剣」、宗矩が家伝書で説いた「活人剣」、新陰流の技法の「活人剣」、禅語の「活人剣」、どれも言葉は同じですけど、意味は全部違いますし、どれが正しいという訳でもないですし喃。

2015-07-29 23:27:07

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神無月久音 @k_hisane

「昔から"活人剣"は人間形成の為のものだ」とか言ったら、そりゃ違う訳ですが、かといって、現在、そういう意味として使われてることまで否定するのはちと違うんじゃなかろうか、と思いますし、「昔はこういう意味で使ってたから、これが正しい」とか言うのもおかしかろうと。

2015-07-29 23:32:08


神無月久音 @k_hisane

その辺で言うと、「活人剣」と対の概念としてよく出る「殺人剣」がありますが、これは活人剣の意味が変遷したからこその産物で砂。当初の活人剣の対になる言葉は「殺人刀」で、それは「殺人剣」とはまた若干意味が違いますが、「だから殺人剣なんて言葉は間違ってる」とか言ってもしゃーないですし喃。

2015-07-29 23:44:33


神無月久音 @k_hisane

更にここから「活人拳/殺人拳」なんて言葉も生まれて、ここから、また元の意味を語ろうとすると、「""ではなく""が正しく、更に言えば人間形成などを意味する訳でもなく、大本は」てな具合に、主張だか薀蓄だかわからぬような有様になる訳で、正誤を論ずるにしても益体もない話であるよなと

2015-07-29 23:53:52


神無月久音 @k_hisane

新陰流系の「殺人刀・活人剣」は「碧巌録」と「無門関」からのものとされてますが、そういうものもあるんですね。 @komorikentarou 「曹山録」にある僧と剣士の問答は、「殺人剣」と「活人剣」のルーツになるのではないかという気がします。@gishigaku

2015-07-30 23:47:57


神無月久音 @k_hisane

ちなみに件の箇所は多分こちら。「僧問。國内按劍者是誰。師曰。曹山(法燈別云。汝不是恁麼人)僧云。擬殺何人。師曰。但有。一切總殺。僧云。忽逢本父母。又作麼生。師曰。揀甚麼。僧云。爭奈自己何。師曰。誰奈我何。僧云。何不自殺。師曰。無下手處」文字化けしそうなのが難儀ですが。

2015-07-30 23:57:39


 


金剛経の禅(1977)

2:6


分別の世界、合目的的世界では常に闘争があり、喧嘩があって騒々しい。しかし無分別的霊性的世界が一たび督見せられると、喧嘩はあっても、そこには憎悪がない、我執がない。自我を忘れた争いであるから、いかに激しく戦っても、憎しみというものは出ない。敵を殺しても、それは憎しみの鏖殺でなくて、愛のたしなめである。禅者は活人剣と殺人刀と二つを使い分けるというが、人を殺すのがすなわち人を活かすこと、殺人刀が直ちに活人剣とならなければならぬ。  

「応無所住而生其心」でないと、このような神変は行ぜられない。これに反して何か滞るところ、住するところがあると、活人剣がかえって殺人刀になる。仏教ではよく「煩悩即菩提」というが、無所住のところにあれば、われわれのもつ煩悩はすべて菩提とならざるをえないのである。


金剛経の禅・禅への道 (ディスカヴァーebook選書) Kindle

鈴木大拙 (形式: Kindle


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東洋的な見方(1963)


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 剣道に禅が大いに関係するなどいうと、西洋人は一体どういうわけか。禅は一種の宗教ではないか。剣は何と言っても人を殺すもの、この両者に何の関係があるべきか。禅は人殺しに何の役に立つのかと、大いにいきり立って、つめよるのである。ことに剣は、自分を忘れ、敵を忘れ、殺すの、生かすのというような分別も何もないところから、発足しなくてはならぬなどというと、当地の人たちは、けげんな顔つきするのが普通である。西洋の文化伝統には、このような考え方は欠けているからだ。わしらのいうことを聞くと全く目のさめたように驚くのに、べつに不思議はないのである。  

 剣を把って立ち合うというのは、命のとりやりになるのだから、一刻も自分を忘れなどしたら、命丸出しになる話でなければならぬ。危険千万な心がけである。ところが実際の上では、自分のことを考えていると、そこにそれだけの隙が出てくる。ちょっとの隙でも隙が出れば、そこに相手の剣を招くことになる。それで命を落とせば事実は自殺したのである。


剣刃上の試合は電光石火で、「私」を容れる余裕がない。ところが、命の取り合いというきわどい間際に自分をどうして忘れうるか。ここに人間心理の極微が窺われるのである。事実「捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というのである。ここを悟るのが剣の極意である。剣の妙である。人間万事の上について、ことごとくこう言えるのである。禅の修行は、その最も根源的なところに、この機を悟らせようとするのである。豈にただ剣のみならんやである。  東洋人にこれを聞かすと早く納得する。西洋人にはなかなか受けとれぬのである。



殺人刀 活人剣  katsujinken - 書道家 田川悟郎 Calligraphy Works - Goroh Tagawa



https://sho.goroh.net/katsujinken/


殺人刀 活人剣  katsujinken - 書道家 田川悟郎 Calligraphy Works - Goroh Tagawa


殺人刀 活人剣

せつにんとう、かつじんけん



「殺人刀、活人剣」とは、禅宗における修行者の指導方法をあらわす言葉です。剣法に例えたもので、相手の誤った心や行いを厳しく制するのが「殺人刀」、逆に相手を受け入れ、進ませるのが「活人剣」。


人を指導する立場にある人は知っておくべき言葉ですね。

正しい使い方を含めて。





『超訳文庫 無門関』  二〇一九年九月 発行  著者 ぶんのすけ



◆第十一話 趙州和尚のオーディション(原題「州勘庵主」)  しゅうあんじゅをかんず


悟りを得たにもかかわらず、それをもって他人を感化・教化することをせず、悠々自適の隠遁生活をおくっている人(=「庵主」)がいるというので、早速、趙州和尚が出向いていきました。  


ある庵の前で呼ばわっていわく、「おーい! 最近どうよ!」。   

庵の主は、黙って拳を上に突き上げました。  

それを見た趙州和尚、 「ああ、こりゃ浅過ぎる。舟も泊められやしない」 と言ったきり、振り向くとよそへ行っちまいました。  


さて、また別の庵の前にやってきた和尚、呼ばわっていわく、「おーい! 最近どうよ!」。  

ここの庵主も、先の庵主同様、黙って拳を突き上げました。  


それを見た趙州和尚、 「ああ、与えるも奪うも自由。  活かすも殺すも自在。

と言って、頭を下げられました。

      *      *  

二人とも同じ対応だったのに、和尚は何故、片方を褒め、片方を無視したのか?   

その理由を一言であらわすことができたなら、この和尚の必殺テクをマスターしたと言ってもいいだろう。  

でもさ、考えてもみなよ。  

これって実は、趙州和尚が逆に、庵主に正体を見破られちまってるっていう見方もできるんじゃないか?

 「庵主の側に何とかして優劣を見出そう」とかいうレベルの低い考え方しかできないようでは、ハッキリ言って見込みナシだね。  


流れ星のように目ざとくて、  

まるでイナヅマのように瞬速。  

これぞまさに、人殺しの刀、  

そして人を活かす剣だ!




https://www.google.com/search?tbm=bks&q=無門関%E3%80%80殺人刀



https://play.google.com/store/books/details?id=3_5Xf2iAnbAC&rdid=book-3_5Xf2iAnbAC&rdot=1


無門関の新研究上巻 - 422 ページ 井上秀天

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1922

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第十一則州期庵主の話の C 評唱〕初字冬服) Z 殺人刀活人恐れは輝宗の典籍中に、しばく散見,る常套文句であるが、一二の例を暴くれば、『若戲鉄』第十二則「洞山麻三斤の話」の垂示の冒頭にも「殺人刀、活人飯、乃上古之風規亦今時之幅要· .


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無門関講義

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1909

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... 間の未來世を待って、彌て$西來樹上の西來意に應對が出菩薩が出現して御釋迦樣して御釋迦樣の後を受けて、化を舉げらる~と云ふことであるが、何うし彌經文のに豫言見 5 に說いてある九十六億七千萬歲と云ム長時間の後に彌勒順縦横で、所謂殺人刀活人 ...


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無門関提唱録 - 104 ページ

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原田祖岳出口鉄城 · 2005 · スニペット表示

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殺人刀。活人剣。まなこりゅうせいせいでんせっにんとうかっにんけん和訓眼は流星、機は型電、殺人刀、活人剣。本提唱「眼は流星、機は寧電」趙州がありやありやと試問したら、庵主はじかに拳頭を趙州の鼻先ヘッーと突き出したのを、趙州はチラッと一見し ...



無門関 - 60 ページ

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2004 · スニペット表示

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若道無優劣、亦未具參學具せず」。頌頌に曰く、じゆまなこせいでん)頌曰 + せつにんとう眼は流星、機は攣電。殺人刀、、逆勲眼流星機攣電殺人刀活人劍そうりん一この話は『趙州録』に見える。但し「庵主」を「尊宿」、「能殺能活」を「能取能撮」とする。



禅の名言100 - 70 ページ

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綾瀬凜太郎 · 2010

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口殺人刀活人剣せつにんとうかつにんけん「人を殺す刀と人を活かす剣」ー『無門関』十一/『五灯会元』《生かすも殺すもおのれ次第》殺人乃とは、人を殺す刀。海人剣とは、人を活かす剣。まあ言葉はそのままである。だが、この刀と剣、実は同じ一本の刀 ...


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無門関講話 - 142 ページ

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柴山全慶工藤智光 · 1977 · スニペット表示

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柴山全慶工藤智光 -142-1434 無門の鎮提唱無門禅師は、同じように拳を挙げた二庵主を看破した趙州禅師の力量のみごとさを称議して、人殺人刀、活人剣。る活人殺人刀。かつにんけんせつにんとうその眼は流星のごとく、その気宇は電のようであ眼は流星機 ...



無門関提唱

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朝日奈宗源 · 1960 · スニペット表示

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『翠電」はいなびかり、いずれもすばや[は職[頌眼は流星。機は製電。殺人刀。活人剣。。さつにんとう」りゆうせいまなこかつにんけ!起放倒を以てこれを示し、無門は優劣の有無をすべて否定してこの消息を漏洩した。ではいわゆる参学の眼を具せずだ。


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無門関の構造研究 - 110 ページ

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岡田正三 · 1936 · スニペット表示

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趙州は言った、うまく放し、うまく奪たとた趙州がある庵主のところへ行つて問うた、居るか、居るか、と。庵主は拳をぐっと突き出した。趙州は言つた、水が浅くてここに船はとめられん、と。二、澤文日。眼流星、機電。殺人刀、活人劍。道優劣無、亦未具 ...



註解無門関独語

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安谷白雲 · 1956 · スニペット表示

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触れてもいかん、背いてもいかんと、つづけざまにやられはいそくこうちかつにんけん殺人刀活人剣というものだ。殺人刀即活人劍だ。[鎮]竹箆を拒起して、殺活の令を行ず」分別妄想を殺しさえすれば、真の我に復活する。それが頌をばに云いやがれ」と、 ...



無門関を読む -  1  - 158 ページ

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平田精耕 · 1982 · スニペット表示

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殺人の刀、活人の 他時異日、人の瞞を受 158 一方をほめ他方を罵ったということには、あまりとらわれずに読んで差支えないようであります。ある時はアルプスの千尋の峻崖のごとくに厳しく、ある時は老婆のごとくにすべてを抱擁してやるような慈悲が自由に ...


鈴木大拙隨聞記 - 志村武 - Google ブックス


255 ページ

とは我から仏に向かっていうことであろうが、親構は『回向し給えり、と読んで、仏が回向されることにしている。これは自分の信仰をはっきりさせるためで、漢文の法則からは無理であろう」 「この文によると、殺人刀 255 二つの心残り.

256 ページ

「この『碧巌録』の第十五則には、殺人刀活人剣。乃上古之風規。是今時之枢要。且道如今那箇是殺人刀活人剣。試挙看とある。この殺人刀活人剣』はなんと読むか」『二、外国語流に考えて素材をめぐりながらも、この両者は立場と目的をまったく異にしてい ...

257 ページ

「この文によると、殺人刀と活人剣とを二つ列ね挙げたものであるから、"殺人刀活人剣"と続刀けて読む」「「殺人刀は活人剣なり」とは読めぬか」「この文では読めぬ。この文からこの六字だけを引き離せば、そう読むこともできる」『碧巌録』の第十二則 ...



https://books.google.com/books/about/鈴木大拙隨聞記.html?hl=ja&id=JucZAQAAMAAJ



志村武

Nippon Hōsō Shuppan Kyōkai, 1967 - 273 ページ

レビュー

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殺人刀 活人剣 鈴木大拙 

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256 ページ

志村武 256 「この『碧巌録』の第十五則には、"殺人刀活人剣。乃上古之風規。是今時之枢要。且道如今那箇是殺人刀活人剣。試挙看とある。この「殺人刀活人剣』はなんと読むか」び質問をはじめた。大拙先生は書棚から『碧巌録』を取り出してきて、あたかも ...

書籍の全文が表示されない理由


ひとり ZEN 【総ルビ原文訓読】碧巌録 第15



http://one-zen-temple.blogspot.com/2020/10/15.html

【総ルビ原文訓読】碧巌録 第15


 


第一五則

「雲門倒一說」

 

【垂示】

垂示云、殺人刀、活人劍、

乃上古之風規、是今時之樞要。

且道、如今那箇是、殺人刀活人劍。

試舉看。

 

【本則】

舉僧問雲門、不是目前機、

亦非目前事時如何。

門云、倒一說。

 

【頌】

倒一說、分一節。

同死同生為君訣。

八萬四千非鳳毛。

三十三人入虎穴。

別別、擾擾怱怱水裏月。



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初世信一 (形式: Kindle


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第一五則 雲門の倒一説

 【垂示】  

 禅の師家に於いて、弟子を指導する方法は、生かすも殺すも自由自在に云う言語の弄し方、それは今も昔も変わらない。さて次の問答で、何が殺人刀に当たるか、何処が活人剣に当たるか、君たち応えてみなさい。 

【本則】  

 或る僧が雲門禅師に質問しました。「実際現実の出来事でない、例えば死後の世界とか、魂の存在云々の事は如何説明しますか」と。それに応えて雲門禅師、「そっくりそのまま其の問いをお前さんに還そう」と。

 【頌】  

 反転攻勢や、仮定の特定。雲門禅師は君の立場に立ってお応えになった。釈迦が一生かけて説かれた御説(八万四千の獅子咆哮。或は亦いう、釈迦四十九年一字不説)は一言で表せるほど軽いものではない。お釈迦様から慧能禅師に連なる祖師方(三十三人)は必死になって法を伝えようと努めたが、その様な意識に無い人が今日大部分。祖師と呼ばれる人は格別な存在。大抵の人は水に影なす月を、それと誤って捕らえようとの必死な日々。  


 因みにこの則は前回の則「対一説」と一対の則に当たるかな。


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未指定:活剣



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