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自衛隊の準機関紙『朝雲』を定期講読するようになってから24年になる。一般の自衛官より私の方が読者歴は長いだろう。自衛隊の各種演習・訓練、部隊の活動やイベントから人事情報まで、情報は盛り沢山である。8月26日付のトップ記事は夏の高級幹部異動。防衛大学校(防大)14期の森勉が陸上幕僚長に発令された。1947年生まれ。自衛隊トップに「団塊の世代」が就く時代になった。
かつて自衛隊の最高幹部は、陸軍士官学校(陸士)や海軍兵学校(海兵)末期の卒業者、一般大学卒によって占められていた。だが、しだいに防大卒が多数を占めていく。まず海自は、海兵76期の長田博(1986年就任)、東京水産大卒の東山収一郎(1987年就任)に続いて、1989年に防大一期の俊英、佐久間一が第18代海上幕僚長になった(91年に統幕議長)。初の防大卒の幕僚長である。陸自は、陸士61期の中村守雄の後に一般大学卒の二人が続いた後、1990年に防大一期の志摩篤が第22代陸幕長となった。空自は、青山学院大卒の米川忠吉に次いで、防大一期の鈴木昭雄が同年、北部航空方面隊司令官から第20代空幕長に就任した。元号が「平成」に変わった直後から、防大一期のトップクラスが「陸の志摩、海の佐久間、空の鈴木」という形で、三自衛隊の幕僚長の座を占めた。そこで思い出したのが、防大一期で志摩に次ぐ俊英・源川幸夫(東部方面総監で退官)のことである。旧軍出身者の幹部と異なり、「焼け跡派」の彼らは「はじめに日本国憲法と日米安保ありき」の世代で、米軍の合理的発想がより徹底している。源川は、日米共同作戦態勢の強化に積極的にコミットした。なお、源川とはRCC(中国放送)の討論番組でご一緒したことがある。12年も前のことだ(1992年3月15日)。冷戦終結間もない頃だったが、私が「ソ連なきあと北海道に戦車師団を置いておく必要はあるのか」と第7師団長経験者の源川に問うた。彼はその縮小の可能性を否定せず、柔軟な思考の持ち主という印象を受けた。
防大一期の幕僚長誕生から15年が経過し、彼らの多くがすでに古稀を迎えた現在、前述のように防大14期の「団塊の世代」が幕僚長になった。自衛隊の高級幹部すべてが「戦後生まれ」となるのも時間の問題だろう。ということは、「『戦争を知らない子どもたち』を知らない子どもたち」の世代が一線の幹部になるということだ。戦争も「焼け跡」も60年安保もベトナム戦争も知らない世代にとって、91年湾岸戦争の「トラウマ」が「敗戦」体験であり、いまイラク戦争の「戦中」気分という若い幹部も少なくない。政治家たちも同様で、「戦争」や「軍事的なるもの」への抑制や「ためらい」がなくなった世代である。「戦後60年」という言葉の重さを改めて思う。
私は、『朝雲』よりも1年早く『軍事研究』の定期購読を始めた。自宅書庫には、その後に古本屋で補充した創刊号(1966年4月号)からの13年分と合わせて、38年分がぎっしり詰まっている。写真左上が創刊号、右下が最新号(2004年12月号)である。創刊後の一時期、正確には1973年7月号から1979年2月号まで、表紙の題字の下に「戦争のあらゆる要因を追求して人類恒久の平和を確立する」という言葉が掲げられていた。まるで「平和研究」誌である。軍事を語ることにそれだけイクスキューズが必要だったのだろう。
ところで、この雑誌で毎号まっさきに読むのがイエローページ、「市ヶ谷レーダーサイト」である。防衛庁が六本木にあったので、長らく「六本木レーダーサイト」といった。筆者は「北郷源太郎」。小名孝雄(『軍事研究』創設者)のペンネームと言われている。この人物は、北海道で『北方ジャーナル』というブラックジャーナルを主催。憲法学の世界では周知の「北方ジャーナル事件」の当事者である。この事件で最高裁判所大法廷は、「人格権としての名誉権」を基礎として、権利侵害を予防するための差止め請求権を承認し、これにより表現行為(この場合は雑誌という出版物)に対して差止めを行うことを一定の条件のもとで許容するという注目すべき判決を出している(1986年6月11日)。「市ヶ谷レーダーサイト」は、その小名の経験とセンスを遺憾なく発揮して、将官人事の動向から次期幕僚長候補、内局の人事異動まで異様に詳しい。
小名が執筆した(と思われる)11月号「市ヶ谷レーダーサイト」(以下「サイト」と略す)の表題は、「石破前長官の遺したものを考える」である(『軍事研究』2004年11月号147頁)。『朝雲』(2004年9月30日付)は、2002年9月30日、石破が第一次小泉改造内閣に防衛庁長官で初入閣してから、2004年9月28日午前9時40分すぎに防衛庁講堂で離任の挨拶をするまでを伝え、これに「激動の729日」という見出しをつけている(あと1日で730日=2年だった)。「サイト」は、その石破の「729日間」の意味を探っていく。
まず、小泉改造内閣を、「小泉の小泉による小泉のための内閣」と批判する。その内閣のもとで防衛庁長官を務めた石破については、「軍事オタクで玄人裸足の知識を持つ石破茂」として、こう総括する。「歴代長官の中で傑出した人物であったことは断言できる」。その根拠として、「まず一つには、軍隊が心から好きだったこと」を挙げる。「彼ほど自衛隊を愛していた長官はいない。匹敵するのは中曾根康弘氏くらいしか思い出せぬ。…この国では、軍隊・軍事が好きだということが、マイナスにこそなれプラスにならないという馬鹿げた風潮がある。…軍事マニアの政治家は、石破氏に引き続いて堂々とカミング・アウトしてもらいたいものである」と注文をつける。実際、民主党の中堅・若手代議士のなかからもカミング・アウトがどんどん出てきそうで、何とも不気味ではある。
さらに「サイト」は、「もう一つ石破氏が長官として抜きんでていたのは、その実績=仕事量である」として、防衛計画大綱見直しと中期防策定を進めるなか、発足以来懸案の「有事法制」を成立せしめ、対ゲリラ・コマンド充実やミサイル防衛研究開発へ端緒を開き、武器輸出三原則見直しの発言もし、自衛隊初の海外派兵〔!〕という難事にも手を着けたことを紹介する。何よりも石破なくして語り得ないのは、自衛隊の統合幕僚組織と参事官制度の見直しを一気に進めたことであるとして、「前向きの仕事でこれほどの実績を残せた長官はかつていないのではなかろうか」、それぞれが外圧や内圧の政治情勢の結果という面もあるが、これらは「石破でなければ実現しなかった」。「サイト」は石破をこう持ち上げる。
確かに、この時期、このタイミングで石破が防衛庁長官にならなかったら、自衛隊の海外派兵から「有事法制」まで、このテンポと内容では進まなかったに違いない。「有事」関連7法案、イラク特措法、武器輸出3原則見直し、「国民保護」法制もそうだが、「サイト」も指摘するように、統幕組織と参事官制度の見直しは決定的であると私も思う。一般には関心は低いが、これは従来の防衛庁・自衛隊の「かたち」を大きく変えていく契機となるだろう。それはなぜか。
歴代長官は、防衛庁内局(背広組)と制服組とのバランスを意識したが、石破は制服の言い分でもって内局を説得し、内局の思考を制服化することに力を注いだ。実際、長官になるずっと前から、石破と制服組との交流は活発だった。女性秘書も「軍事オタク」という点では石破といい勝負と週刊誌でも紹介されている。6年前、自民党安保調査副会長時代の石破と、議員会館の彼の部屋で対談したことがある(双論98「日米新指針――際限なき対米協力に道」『中国新聞』1998年4月27日付掲載)。元気のいい女性秘書にもその時会っている。その後、石破とは、2002年4月26日のテレビ朝日の「朝生」でご一緒した。その5カ月後に防衛庁長官になった石破は、何の気負いも衒いもなく、制服の主張を正面から主張していった。心の底からの「軍事好き」が滲み出るので、内局の参事官たちも、従来とはかなり異なるタイプの大臣に戸惑ったことだろう。
一般に、政治家が大臣になると、事務方のトップである事務次官を頂点とする役所の機構の上に座る自分に孤独を感ずるという。その孤独に耐えて、政治家がどのように処していくかで評価が分かれる。事務方に完全コントロールされる大臣(ほとんどこれ)、事務方を無視して、わが道を行き、最終的には事務方の長に「相討ち」で辞任させられた大臣(田中真紀子外相)、官僚機構の特性をうまく使って資料を見つけ出して得点を稼いだ大臣(菅直人厚生相)等々、さまざまである。だが、防衛庁長官の場合、事務次官、官房長、局長たちの「内局」(背広組)と、自衛隊制服組との実質的な二元構造の上に座るわけだから特別である。国家行政組織法や防衛庁設置法などの仕組みからすれば、法的には、内局を通じて制服を指揮することになる。「普通の長官」ならば、参事官制度の上に乗っかって、「大過なく」在任期間を全うすることだけを願う。だが、石破は違った。徹底して、この仕組みを変えようと動いた。「石破的刷り込み」は2年かけて、ジャーナリズムや国民の間にも広まった。憑かれた目つきが気になって、話の内容に気が向かない。しかも彼は非合理なことは言わない。彼が主張するのは、軍事的合理性の基準とした制度改編である。従来の自民党主流の政治家たちは、選挙民の平和を求める気分や非戦感情を測定しつつ、他方で周辺諸国を過剰に刺激しないように、「憲法の枠内」というイクスキューズを多用しつつ、軍事的合理性の突出を抑える政治的味付けを施そうとしてきた。「専守防衛」や「防衛費GNP1%」、集団的自衛権行使の違憲解釈など、すべて軍事的合理性から見れば「不合理の極み」である。だが、官僚・軍人と政治家を区別するのは、国民感情やら周辺諸国との関係といった「アバウトな要素」をも組み込んでいくバランス感覚である。軍人や官僚の専門的、合理的判断だけが突出すれば、失うものも少なくない。高度の政治判断という形で、最終的に選挙で民主的正統性を与えられている政治家に期限付き(任期)でそうした判断を委ねる。「曖昧な日本」もそうした政治判断の蓄積の結果であり、それ自体は批判的に分析・総括される必要があることは言うまでもない。宮沢型の解釈改憲コースがいいと言っているわけではないのである。
小泉内閣になって、あまりに本音の突出が激しい。「集団的自衛権を持っているのに、行使できない」という内閣法制局の解釈の矛盾をつき、「おかしい」「不合理だ」「すっきりしたい」という直球的な物言いで、そうした戦後的な「曖昧な日本」の部分を切り捨てようというのである。石原慎太郎式の物言いだったら、内局もキレただろうし、周辺諸国の反発も特大級になる。だが、石破流のやり方は功を奏して、ついに内局の参事官制度にまで政治の手が入った。
軍政と軍令という言葉があるように、軍の運用(作戦)は軍令事項であるから、制服組のトップである参謀総長、統合参謀本部議長、統合幕僚会議議長といったミリタリーのトップが長官を補佐する仕組みが通常である。戦前日本の場合、閣僚である陸・海軍大臣は内閣総理大臣と同格であり、総理大臣は「同輩中の首席」にすぎなかった。天皇の国務大権を内閣が「輔弼」する。天皇が統帥大権を持ち、軍令面については陸軍参謀総長と海軍軍令部長(後に総長)が「輔翼」するのである。内閣総理大臣は軍令事項にコミットすることはできなかった。統帥権の独立である。政治の関与を否定して、ひたすら軍事の論理が突出していく。戦後はこの仕組みが徹底して否定された。まず、憲法で軍隊(戦力)存在しえないことになった(9条)。軍隊や戦力にならざる「自衛力」のみが合憲であるという建前が作られた(1954年以来の政府解釈)。警察予備隊として発足して以来、自衛隊となったいまも、組織の「かたち」としては「普通の軍隊」ではなく、警察の「残滓」を無数に残している。「普通の大臣」ならば、官僚たちの意向を斟酌して、そこまで踏み込め(ま)ないできたのを、石破は、「普通でないのはおかしい」と素直に、率直に主張して、軍事的合理性に合わないものを一つひとつ取り除いていった。彼は、その能力と主観的意図以上に、この国の50年かけて作られた枠組みを動かしたのである。その際、石破の主張が決して好戦的軍国主義者のそれではなく、「普通の軍隊」の軍事的合理性の主張である点を見落としてはならないだろう。
この国の場合、憲法9条の徹底した平和主義と実質的な軍隊の存在という乖離があまりに激しかったために、「普通の国」のように、シビリアンコントロールがきちんと定着してこなかった。この国のシビリアンコントロールというのは文官の内局優位の仕組みに矮小化され、「日本型文官スタッフ優位制度」(古川純)となってきた。議会の軍事統制の仕組みも未熟である。だから、長年の内局の「過剰な介入」に対して、制服のフラストレーションは極点に達していた。小泉的政治手法と、石破というまたとない大臣を得て、一気に「普通の軍隊」化がはかられているのである。その結果、軍事的合理性が過度に突出する危険が大きくなっている。このことが問題なのである。
田中角栄は利益誘導の「田中型政治」を定着させ、金脈問題で転落した。だが、戦争中に下士官だったこともあり、角栄の軍隊嫌いは有名だった。自衛隊観閲式も嫌がった。また、海部首相(当時)は、90年の湾岸危機の時、ブッシュ(父)大統領から自衛隊を派遣するのか否か、「イエス・オア・ノー」と問われて、思わず「オア(or)」と言ったとか言わないとかを云々されるほど迷い、優柔不断な態度をとった。だが、いまの小泉首相は、米国の先制攻撃戦略の方向に「イエス」しか言わない。12月14日(イラク派兵期限)という時点で、これまでの政策を再考し、ここで条件を付けるなり、あえて自衛隊を撤退させるなりすれば、世界にどれだけのインパクトを与えるか計り知れない。加藤紘一、亀井静香、古賀誠といった政治家たちの自衛隊イラク派遣延長慎重論は、やや遅きに失したとはいえ、戦後保守のギリギリのバランス感覚の発露と言えるだろう。だが、小泉はそうした意見を一顧だにせず、12月14日の自衛隊イラク派遣期限の延長を決めるだろう。このあまりに単純明快、独断専行、猪突猛進な小泉型政治こそ、この国の平和と安全保障を危うくする最大の脅威になっているとは言えまいか。いま、政治家は、大局的視点から、いかに「ノー」を言うかが問われている。
今や近過去となった石破時代。その負の遺産は、この国が長年持ってきた「軍事的合理性」への危惧と抑制の意識と仕組みを変え、軍事をも選択肢とする「大国」への道を進めたことだと思う。「軍事好き」の政治家がトップになったときの怖さと危なさは、今も昔も変わらないことを知るべきだろう。
4月12日、大阪に2時間54分滞在した。市民団体主催の集会で講演するためである。NHKが取材にきて、当日夜8時45分のニュースで講演の一部が紹介された。同じ時刻に宇都宮市で、自民党が改憲草案をめぐる対話集会を開いたので、それと対照的な集会としてたまたま選ばれたようである。
『世界』5月号で書いたとおり、「わが国」が武力攻撃を受けてもいないのに他国を攻撃することを正当化する集団的自衛権の行使は、どんなに「限定的」であっても許されない。それを行えば、「自衛のための必要最小限度の実力だから自衛隊は合憲である」としてきた長年の政府解釈を捨てることを意味する。この解釈は、あくまでも「わが国」を「防衛」するという「個別的自衛権」の範囲内の論理操作である。私は憲法研究者として自衛隊違憲論に立つが、この『世界』5月号では、あえて政府解釈を基軸において、安保法制懇報告書(2008年)とその後の議論を内在的に検討した。安倍首相が驀進する「憲法破壊」路線を阻止するためには、憲法改正や自衛隊をめぐる立場の違いを超えた「立憲的合意」が求められているからである。
講演では、その内容に加え、集団的自衛権行使を合憲とする安倍晋三流「憲法介錯」を批判した。例えとしては品がよくないが、あえて言えば、ヤクザの親分が、隣町に住む舎弟が他の組の者に袋叩きにされたからと、その組の事務所に殴り込みをかける「ヤクザの出入り」を「集団的正当防衛権の行使」といって正当化するようなものだ。また、親分の利益が害されたからといって、害を受けていない仲間も殴り込みに加わることになりうる。もし、集団的自衛権の行使を合憲と閣議決定するならば、安倍首相は、憲法の首を落とす「憲法介錯人」になるだろう、とも。
上記はあくまで例えであって、個人は固有の権利や正当防衛権をもつが、国家は憲法に明文規定もないのにもつわけではないことは言うまでもない。
さて、集団的自衛権行使容認論では、他国から攻撃されたアメリカを「助けるため」とよくいわれるが、その他国からみれば、攻撃していない日本から「先制攻撃を受けた」ことになり、現実として日本はそのまま武力衝突の当事国になるのである。「助けるだけ」では済まず、他人の喧嘩の矢面に立つことになる。前掲『世界』5月号でも述べたが、米艦が攻撃され、自衛隊が攻撃国に対して反撃すれば、攻撃国からすれば先に攻撃をしてきたのは日本であるから、攻撃国は自衛隊に反撃し、その後は日本と攻撃国との間の武力衝突となるが、その先をどうするのか、容認論者は考えているだろうか。
昨年、石破茂自民党幹事長は、出動命令に従わない自衛隊員に対して現在の懲役7年では軽いから、「従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら300年」と、国防軍にして死刑や無期懲役などの重い罰則で服従させるようにすべきだと語った。石破氏はこの間、一貫して自衛隊の「普通の軍隊」化に向けて驀進してきた人であるが、このところ、粘着質の口調で次々と本音を突出させている。
4月5日のテレビ東京の番組で石破氏はこうも述べた。「(集団的自衛権の行使を容認した際に自衛隊が)地球の裏側まで行くことは普通は考えられないが、日本に対して非常に重大な影響を与える事態と評価されれば、完全に排除はしない」(『東京新聞』4月6日付)と。この「地球の裏側」という言葉を聞くと、昨年9月19日、自民党の安保関係合同部会で、高見沢将林官房副長官補(防衛省防衛政策局長などを歴任)が、集団的自衛権行使が認められた場合の自衛隊の活動範囲について、「『絶対、地球の裏側に行きません』という性格のものではない」と語ったことが想起される(『朝日新聞』2013年9月20日付)。
また、石破氏はその番組のなかで、アフガン戦争で集団的自衛権を行使した国の軍隊が多数の死者を出したことから「日本にその覚悟があるか」と問われて、「自衛官は危険を顧みないという誓いをして任官している。危険だから(派遣を)やめるということはあってはならない。内閣が吹っ飛ぶからやめておこうというのは政治が取るべき態度ではない。政治の覚悟の問題だ」と明言した(『朝日』『東京』4月6日付)。
「政治の覚悟」とは何か?「内閣が吹き飛ぶ」ことか。それは自衛隊員の大切な命と天秤にかけられるものなのか。集団的自衛権行使について勇ましく語る政治家たちは、自らは決して「戦場」に赴くことはない。
いま、安倍政権は「国防軍」にするための明文の憲法改正の追求(4月12日のNHKニュースが報じた「改憲案の対話集会」)と同時に、来月にも集団的自衛権の行使を合憲とする閣議決定を行おうとしている。これは、自衛隊員を現在の服務宣誓のまま、「わが国」が攻撃されていない戦闘に参加させて生命の危険にさらすことを意味する。
自衛隊に入隊するとき、必ず服務の宣誓が行われる。自衛隊法施行規則39条はその服務の宣誓について定める。宣誓の言葉は次の通りである。
「私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、
傍点をふった箇所は他の公務員の服務宣誓にはない言葉である。生命の危険を確実に伴う行為は、「わが国」が攻撃されたことに対処するためのものであって、「わが国」が攻撃されていないのに「他国」のために身を危険にさらすことは、この宣誓から当然には出て来ない。イラク派遣(私は徹底的に批判するが)までは、ギリギリ現行の政府解釈の枠内での措置として行われたものであったが、集団的自衛権の行使を合憲とした上で行われる「戦闘行動をする多国籍軍への支援活動」(武力行使と完全一体化した活動)は、これまでの服務宣誓で命令することは許されないだろう。その意味で言えば、集団的自衛権の行使に基づく活動を拒否することはできるかというシビアな論点が出てくる。ドイツでは、イラク戦争を国際法違反の侵略戦争として、命令を拒否する軍人があらわれたことはすでに述べた(直言「ドイツ軍少佐からの白バラ――軍人の抗命権・抗命義務」)。もし、安倍政権が集団的自衛権の行使の合憲解釈に突き進むならば、服務の宣誓のやり直しが必要になる。それは、自衛隊内における精神教育や士気にも連動するだろう。私は『世界』5月号拙稿の結びで、次のように書いた。
…もし、自衛隊が海外での武力行使を「普通に」行える軍隊になったならば、日の丸にくるまれた柩が羽田空港に到着する可能性は確実に高まる。戦後半世紀もの間、自衛官が海外で「戦死」することは想定されてこなかった。この国は憲法九条で「戦争をしない国」というのが国是であり、自衛隊員は「わが国を防衛するために」、「危険を顧みず」「身をもって責務の完遂に努め」ると宣誓したはずである(自衛隊法施行規則39条)。 実は、1954年7月1日を期して保安隊から自衛隊への切替えが行われたとき、宣誓のやり直しが6月21一日に全国の部隊で一斉に行われたところ、保安隊から7300人、警備隊から10人、保安大学校から6名が宣誓書に署名しなかった(水島『武力な平和――日本国憲法の構想力』岩波書店、1997年参照)。もっぱら治安維持の任務から軍事的色彩の濃い「防衛」への任務変更に対する躊躇いや抵抗感が存在したのである。いま、集団的自衛権の行使を合憲化して、自衛隊を海外での武力行使に参加させるならば、隊員に対して宣誓のやり直しが必要だろう。
第二次世界大戦の同じ「戦敗国」としての、また、海外派遣「先輩国」としてのドイツが、NATO加盟国として集団的自衛権を行使し、アフガニスタンで「戦死者」を出し、またドイツ軍大佐の命令で多数の民間人を殺傷するという悲劇を体験していることを安倍首相はご存じだろうか(直言「何のための「戦死」か――アフガン戦争9年目の現実」)。日本も海外での武力行使を許せば、自衛隊員の死者を出し、自衛隊員が人を殺すことになる。
ドイツ連邦軍は2014年1月現在、103人が海外派遣で死亡している。アフガンでの活動では55人が死亡し、そのうちの35人は「外からの力」によるもの、つまり戦闘による死亡である(連邦国防省のサイトより)。2008年10月24日、フランツ・ヨーゼフ・ユンク国防相(当時)は、戦後ドイツ史上初めて「"戦死した"軍人」("gefallene"soldaten)という言葉を公式に使用した(Deutsche Welle vom 24. 10. 2008)。
冒頭の写真はアフガンから遺体となってケルン・ボン空港にもどってきたドイツ連邦軍の兵士の柩である。見出しは「何のために死すか」。自衛隊でも、「何のために死すか」という究極の覚悟をもたせるための精神教育が行われてきた。14年ほど前、自衛隊がいかなる「精神的基盤」をもち、その統合要素は何かについて分析したことがある(拙稿「軍隊における『精神教育』」〔杉原泰雄他編『平和と国際協調の憲法学』勁草書房、1990年。水島朝穂著『現代軍事法制の研究』日本評論社、1995年に所収)。
戦前の軍隊は「天皇の軍隊」だったが、自衛隊は天皇との関係は公的には回避してきた。古い資料だが、1962年の陸上幕僚監部『精神教育(陸士本技用・陸士練成教育用)を見ても、天皇という言葉は出て来ない。その代わり、「民族の優秀性」や「理性的愛国心」が強調され、反全体主義の体系的教育がプログラムされている。自衛隊と民主主義の関係も取り上げられている。また、部内の別の研究では、次のような指摘がある。「最も現実性に富む方法は天皇も国民も内含するところの『国』…理論的にいえば日本国の『意志』(現存国民に限定されず)の理念が、権威の根拠であるとする方法であろう。忠誠の志向対象はこのような意味での『国』となる。…」(前掲拙稿[『現代軍事法制の研究』104-105頁]参照)。
その後、特に90年代以降、自衛隊にさまざまな海外派遣任務が課せられてきた。海外派遣を「本来任務」に滑り込ませる自衛隊法改正も行われた(直言「海外出動『本来任務化』の意味」)。しかし、いまはまだ一人も死んでおらず、一人も殺していない。紛争解決の手段として武力を使わないと誓ってからまだほんの70年足らず。日本人のその決定には並々ならぬ、それこそ「覚悟」があったはずである。日本が攻められてもいないのに、(国防軍(「国益防衛軍」)や「他衛隊」になって、拡大解釈された「国益」を守るために、自衛隊員が命を危険にさらすようなことを許してはならない。
九州大学(九大)は7月25日、原子核を構成する核子(陽子と中性子)の間に働く力のうち、3つの核子の間に働く相互作用である「3体核力」について、長らく未解明のままだったが、その詳細な仕組みを理論的に解き明かすことに成功したと発表した。
同成果は、九大 基幹教育院の福井徳朗助教らの国際共同研究チームによるもの。詳細は、素粒子物理や原子核物理などを扱う学術誌「Physics Letters B」に掲載された。
原子核を構成する複数の核子は、2つの核子の間の相互作用である「2体核力」のみならず、3体核力や、より多くの核子の間の相互作用である「多体核力」を通して、原子核を原子核足らしめている。これまでの研究により、2体核力の性質はある程度理解が深まっているが、3体核力については多くの謎が残されていたという。特に、3体核力がどのように働いて原子核殻構造が発現・発達するのか、その詳細な仕組みは解明されていなかったとする。
3体核力の仕組みについて、解明に迫った先行研究は40年以上前にあるが、その研究では3体核力のある特定の性質にのみ注目したこと、そして当時は信頼できる核力理論が確立されていなかったことから、決定的な結論を導くことはできていなかったという。そこで研究チームは今回、先行研究では果たせなかった決定的な結論を導くことを目指すことにしたとする。
3体核力の解剖図。横方向は交換するパイ中間子の数で分類が行われ、それぞれがファインマン図(核子の運動を矢印、中間子を点線)で表現された。縦方向の分類は、3つの核子のスピンと軌道運動を、数学の「テンソルの階数」を用いて分類した。今回の研究により、2つのパイ中間子を交換する1階の3体核力が、殻構造の発達に本質的に重要な寄与を果たしていることが発見された(出所:九大プレスリリースPDF)
今回の研究で用いられたのが、先鋭的な核力理論の「キラル有効場理論」。自然界にある4つの力のうちの「強い相互作用」の基礎理論は量子色力学であるが、同理論はその低エネルギー有効理論と位置付けられており、2体核力だけでなく、多体核力をも整合して定義できる長所を持つ。
具体的には、交換するパイ中間子の数で3体核力を分類し、それぞれを3つの核子のスピン(核子自身を回転軸にした自転に似た運動)および軌道運動(核子自身以外の特定の回転軸を中心にした回転運動)の組み合わせによってさらに分解、3体核力の各要素のうち、どれが殻構造発達を引き起こしているのかを理論的に分析したとする。
この手法とスーパーコンピュータによる原子核シミュレーションの結果が、縦軸に炭素12原子核に陽子を1つ付加した時のエネルギーを百万電子ボルト(MeV)単位で表す形でグラフ化された。
炭素12原子核に陽子1つを付加した時のエネルギーの計算結果。2体核力のみでは、内殻と外殻の核子間のエネルギーの間隔が小さいため、殻構造が未発達。一方、1階の3体核力によってエネルギー間隔が約2.5倍に増大し殻構造が顕著になることが、今回の研究で解明された。また、1階の3体核力によるエネルギー間隔への寄与は、すべての階数の3体核力による寄与の約85%を占めている。発表された論文では、中性子のエネルギーや他の軽い核についても同様の結果が報告されているとした(出所:九大プレスリリースPDF)
陽子のエネルギーは量子力学の法則により、内殻に対応するエネルギーと外殻に対応するエネルギーの2つに分かれる。このエネルギー間隔の大きさが殻構造の発達を特徴付ける物理量の1つだという。3体核力を無視した計算結果はエネルギー間隔が小さく、2つの殻が際立っておらず殻構造が曖昧といえるとした。
しかし、2つのパイ中間子を交換する1階の3体核力によって、この間隔はおよそ2.5倍に増加。この時のエネルギー間隔は約7.5MeVであり、安定な原子核における典型的なエネルギー間隔と整合するという。エネルギー間隔が大きいことは、核子1つが励起するために必要なエネルギーが大きいことを意味するため、1階の3体核力は原子核を励起しにくくしているといえるとした。
また、すべての階数の3体核力を考慮して計算したエネルギー間隔は、およそ8.8MeVだった。そのことから、1階の3体核力によるエネルギー間隔への寄与は、すべての階数の3体核力による寄与のおよそ85%を占めていると結論づけることができるとした。
2つのパイ中間子を交換する1階の3体核力が重要であるという結論は、40年以上前の先行研究の主張と整合するという。しかし先行研究は、この3体核力の一要素の寄与のみを調べたものであり、相互作用の強さは曖昧なままだったとする。今回の研究はそれとは対照的であり、3体核力をより完全な形で扱って各要素の寄与を個別に分析し、そして先鋭的理論によって2つのパイ中間子交換による3体核力の強さが精密に定量化され、これらの点が先行研究との差異とした。
2つのパイ中間子を交換する1階の3体核力は、殻構造の起源のみならず、原子核の一般的性質に重要な寄与を果たしうることが考えられるとする。この3体核力は、3つの核子系のスピンと軌道運動にある特別な働きをする。具体的には、3核子系を構成する部分2核子系の反対称なスピン状態と対称なスピン状態を混合させる。類似する現象は物性物理において知られているが、この混合は2体核力では決して起こらないため、これまで原子核物理では注目されてこなかったという。また、スピン状態の混合とはつまり、スピン状態が区別できない量子もつれと等価とする。このような観点から、3体核力をきっかけに分野を超えた新たな研究が今後、期待されるとしている。
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…「弱者保護への怒り」は決して異常な反応というものではなく極めて一般的、かつ、凡庸な反応だということが政治社会学的に知られています。これは、政治社会学の世界では、1990年代から西側諸国で起こった新しいタイプの「ルサンチマン」だと言われています。
その点を指摘した代表的論客がアメリカの社会批評家で歴史学者のクリストファー・ラッシュです。
ラッシュは『エリートの反逆』の中で1990年頃から、民主主義国家におけるエリート達が、「弱者が享受する社会的保護や公共サービス」を攻撃し、彼らが支援する政治的勢力による差別的な政策を支援する、という奇妙な現象が起こっていると指摘します。そしてこれこそ、現代民主主義の深刻な病理だと論じたのです。
From 藤井聡@京都大学大学院教授
こんにちは。表現者クライテリオン、編集長の藤井聡です。
「インボイス」について、ここ半年ほどあれこれ情報配信してきましたが、なかなかその真実が国民に知られていない、という残念な状況があります。ようやく、この度地上波TV(正義のミカタ)でも一部取り上げられたのですが、メインで解説した方(森永康平さん)とは違う見解をお持ちの出演者がおられたということで、番組内容が混乱してしまい、視聴者にはあまりしっかり分かり易く情報が提供されなかったようです。
ついては当方の個人メルマガ『表現者クライテリオン編集長日記』で、その様子を解説すると共に、なぜそんなヘンテコリンな言説が特に保守論客系の方々からあるのかについて、社会科学的に解説しました(https://foomii.com/00178/20230320171958106917)。
如何にご紹介差し上げますので、是非、ご一読下さい!
……
インボイス制度については賛否入り交じって色んな意見がネット界でも飛び交っていますが、煎じ詰めて簡単に言うと、次の様なものです。
「インボイス制度が今年の10月に導入されると、今まで消費税を納める必要が無かった売り上げ1000万円以下の零細事業者・個人事業者達も、(事実上)消費税を納めなければならなくなる」
つまりインボイス制度の本質は、「免税業者からも税を取り立てるようにする制度変更」なのです。
そうなると、デザイナーだとか声優だとか一人親方や個人タクシードライバーとかも、今まで払って無かった税金を払わないといけなくなります。
例えば、800万円の売り上げがあったタレントさんは、インボイスが入れば(かつ値上げしなければ)約73万円もの大増税になるのです!(一応、当面は納税軽減措置が執られるようですが、結局はこうなります)
ちなみにここで重要なのは、その業者が今までお客さんから「消費税は頂きません!」というスタンスで商売をしていたとしても、それとは無関係に、(インボイス制度になれば、先の例で言えば)約73万円を納税すべきだという事になります。
その結果、多くの事業主の貧困化が一気に進行する他、廃業に追い込まれるケースも多発する事になります。実際、声優業界は、インボイスが入れば3割弱が廃業を検討すると表明しているそうです。
そんなこんなで、全国の零細事業者、個人事業者はインボイスに大反対している、という次第です。
(なお、それだけの増税に耐えかねた事業主は、何とか生き延びようと、「値上げ」を試みます。そうなると、発注業者も我々消費者も皆、値段が上がる、という不利益を被る事になります。つまり先の73万円を、タレントさん(下請け)、TV局(元請け)、あるいは、視聴者(消費者)の三者が分担しながら負担する事になるわけですから、結局皆にとって不利益が生ずるのです)。
……ということで、テレビ番組「正義のミカタ」で先週の土曜にインボイスが取り上げられたのですが、そこで大変奇妙な現象が起こったのです。
番組内でも、番組後のネットでも、
「インボイスの何が悪いんだ!」
「今まで、零細・個人事業主は消費税を納めてなかったのがズルいのだから、払うのが当たり前だ!」
という声が多数湧き上がったのです。
そしてそうした声の中には、あからさまに「インボイス反対論者に対する嫌悪の念」の表明も含まれていました。例えば、高橋洋一さんは、
「番組で出てきた反対団体を見たら、ゾッとしますよ」
https://twitter.com/YoichiTakahashi/status/1637061370553458688
とツイートされています。
これはもう、インボイスの中身に対する批判というよりも、インボイスに反対する人達に対する嫌悪というべきものですね。
これは「大阪都構想」の時に生じたものとよく似た現象です。
大阪都構想は、大阪市民を守る共同体である「大阪市」を廃止するという話で、それに対して反対運動が起こったわけですが、その反対運動に維新や高橋さん等の保守派の人達は激しい嫌悪、憎悪を表明されたのです。
このインボイスについても、「1000万円以下の事業者の免税制度」を廃止するという話だから、それに対して反対運動が起こっているわけで、それに対して、保守の論客達が嫌悪、ないしは憎悪を感じておられるわけです。
ですからこの両者は、「弱者保護を廃止する事に対する弱者からの反対」に嫌悪・憎悪する、という意味で全く同じ構図なのです。つまり「インボイス導入」も「大阪都構想」も、「社会的弱者を保護する制度の廃止」を意味するもので、それに対して、一部の保守論客や維新らが推進しようとし、それに反対する勢力に対して「ぞっとする」という嫌悪や憎悪の念を差し向けているわけです。
しかしながら、高橋さんの態度に象徴されるこうした「弱者保護への怒り」は決して異常な反応というものではなく極めて一般的、かつ、凡庸な反応だということが政治社会学的に知られています。これは、政治社会学の世界では、1990年代から西側諸国で起こった新しいタイプの「ルサンチマン」だと言われています。
その点を指摘した代表的論客がアメリカの社会批評家で歴史学者のクリストファー・ラッシュです。
ラッシュは『エリートの反逆』の中で1990年頃から、民主主義国家におけるエリート達が、「弱者が享受する社会的保護や公共サービス」を攻撃し、彼らが支援する政治的勢力による差別的な政策を支援する、という奇妙な現象が起こっていると指摘します。そしてこれこそ、現代民主主義の深刻な病理だと論じたのです。
日本で言うならそれは、弱者を切り捨てる新自由主義や構造改革やグローバル化を自民党や維新が推進し、それを「エリート知識人達」が支援するという現象に対応します。
先日、成田祐輔氏が「働けない高齢者は集団自殺しろ」と発言し、それをホリエモン達が支持するという現象がありましたが、これもまた同様の話です。
彼ら「エリート達」は、弱者保護(低所得者や高齢者に対する保護)に対して、激しい不公平感を抱いているのです。
この理由について、ラッシュは、『彼らは自らが稼いだカネの何十%、場合によっては、半分以上ものカネを、税金として納めている一方、貧困者や高齢者達は、全然働かず、彼らが納めた税金で保護されて生きている、という事について激しい不満を感じているからだ』というものだと論じています。
現代民主社会では、そうした弱者保護が当然だということになっており、それによって「強者達」は不利益を被っているわけですが、彼らにはその現状を変えられないわけです。
こうした不満があるのに、その状況を変えられない……と言うときに生ずるのが「ルサンチマン」(弱者の怨嗟・怨恨)なのです。
長い間、このルサンチマンは弱者から強者に対して抱くものだったのですが、先進諸国が法的に弱者保護を制度化したものだから、今度は強者から弱者に対する恨みつらみが生まれ、これがルサンチマンと化したのです。
こう考えると、当方がインボイス導入に対する反対論を展開した途端、保守の論客達が一斉に筆者を批判し出すのは、強者・エリート達が抱く典型的なルサンチマン故なのだ、という実態が見えてきます。
で、財務省は兎に角、カネをたくさん吸い上げる制度をつくることを自己目的化しているので、
「消費税で、弱小業者が利益を得る益税があるのです!」
なぞという説明を繰り返し、そういう強者側のルサンチマンを煽って、弱者達から搾取しようとしているわけです。
ホンットに、おぞましい話ですが、現代人は、このコンクリートジャングルの中の、単なる野蛮人と化しつつある、ということですね。
ホント、ぞっとしますね('-'*)。
では、また来週!
追伸;
「表現者クライテリオン編集長日記」では、次の様な記事も配信しています。ご関心の方は是非、ご一読下さい。
岸田総理のウクライナ電撃訪問をどうみるか? ~それは日本の国益にとってプラスなのかマイナスなのか~
https://foomii.com/00178/20230322001652106960
インフレはコストプッシュ型であってもメリット"も"あり! しかし岸田内閣が緊縮を続ければ、日本は確実にデフレに舞い戻る。
https://foomii.com/00178/20230318072921106828
映画『仁義なき戦い』の真の主役は「全てをダメにしていったクズ中のクズリーダ」である金子信雄である。それはまさに現代の<岸田文雄>の先駆けであった。
https://foomii.com/00178/20230319132951106866
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本書は、英国統計学会(王立統計学会)の元会長である著者による、数式をほとんど使わない統計学入門書、The Art of Statistics: Learning from Data by David Spiegelhalterの邦訳版です。英国では、この種の本としては異例のベストセラーとなり、英Amazonの書籍総合ランキングで最高28位となりました。
ベストセラーになったのには理由があります。本書は徹頭徹尾、すべての項目で、現実の事件・事故・世論調査などを例にとって解説しています。扱われる事例は、タイタニック号沈没事故や、数百人を殺めた連続殺人医師、発掘されたリチャード3世のものと目される遺体の真偽、ベーコンの発癌リスクや、さらには英国人の性的パートナーの生涯人数の調査まで、いずれも興味を惹くものばかり。これらのデータに、適切な統計学的な手法を当てはめると、驚くべきことがわかること(あるいは意外にも、わからないこと)を、次々と示していきます。一貫して、数式はほとんど出てきませんが、そのロジックはきっちりと解説。そのわかりやすさ・面白さに多くの人が驚き、本書は高い評価を得ることとなりました。
本書は、統計学教育でも長年の経験を持つ著者が、データサイエンス時代に対応した新しい統計学入門書を著そうと、書いた本です。このために著者は、「PPDACサイクル」を骨子として、議論を展開しています。これは「問題(Problem)」「計画(Plan)」「データ(Data)」「分析(Analysis)」「結論・コミュニケーション(Conclusion, Communication)」の頭文字をとったもので、この順に探究を進め、最後にまた「問題」に戻ることを繰り返すことで、対象への理解を深めていくという、近年、統計学教育においても注目されている、問題解決志向のアプローチです。旧来の統計学教育では、定型的な数学的テクニックの使い方(「分析」の数学的な側面)を偏重してきましたが、本書はそこばかりではなく、おろそかにされがちな実験や調査の「計画」や、「データ」の吟味、さらには、適切なデータビジュアライゼーションで「結論」を伝えることの重要性も、詳細に解説します。
ブートストラップ法を多用したり、機械学習についても1章を費やしたりと、計算機統計学的な手法について詳しく解説していることも特徴でしょう。さらに、初学者を混乱させがちな確率論を極力、冒頭では扱わず、本の後半に入ってからじっくりと解説していることも本書の良さで、わかりやすさにつながっています。著者は、ベイズ統計学を信奉する「ベイズ派」であることを自認しているだけに、主観的確率や認識論的不確実性といった概念についても詳述、ベイズ統計による推論についても1章をさいて、基礎からベイズ統計モデリングまで、とてもわかりやすく解説しています。
このほかにも、P値ハッキングなどの「再現性の危機」の問題、統計学的結果が誇張されて報道される問題、さらに報道の読者・視聴者がそれを批判的に吟味できないというデータリテラシーの問題なども取り上げています。本書は、入門者が知るべき統計学の現代的論点を網羅しており、まさに待ち望まれた「統計学入門書最新決定版」と言えるでしょう。本書が多くの初学者の助けとなることを願っています。
(担当/久保田)
図表一覧
序文
英国史上最多殺人犯と統計学
経験をデータに変えることの難しさ
問題解決志向で統計学を教える
本書について
まとめ
第1章 割合を比較するとき カテゴリデータとパーセンテージ
病院の管理のずさんさは統計に表れるか?
データ提示のしかたと受ける印象
カテゴリ変数とは何か、どうグラフに表すか?
2つの割合を比較するのがやっかいな理由
まとめ
第2章 数値データを要約して伝える 数値がたくさんある場合
数の分布を図に表す方法と多くの数の代表値
データ分布の広がりかたを表現する方法
分布の広がりのパターンの違いを表現する
2つの変数間の関係の程度を表現する
時系列での傾向を表現する
統計学における情報伝達のルール
統計学はストーリーを語る
まとめ
第3章 データから学ぶためデータについて考える 母集団と測定値
生のデータから知りたいことを導くまで
データから学ぶ 「帰納的推論」のプロセス
すべてのデータが手に入る場合
母集団分布が「鐘形曲線」の場合
実はわかりづらい「母集団とは何か?」
まとめ
第4章 何が何の原因か?
原因と見せかけて原因でないもの
「相関関係は必ずしも因果関係を意味しない」
ともあれ「因果関係」とは何か?
無作為化ができない場合にはどうするか?
観測された相関が因果関係ではない場合
観察的データから本当に因果を結論できるのか? まとめ
第5章 回帰を使って関係性をモデリング
2変数間の関係を表す回帰直線
統計モデルの構成要素「シグナルとノイズ」
説明変数が複数ある場合の回帰モデル
応答変数が比率や時間の場合の回帰モデル
回帰モデル以外にもモデルはある
まとめ
第6章 アルゴリズム、分析、予測
データから学んで答えを提供するシステム
パターンを見つけるアルゴリズム
分類と予測を行なうアルゴリズムの種類
分類ツリーを使って判定する場合
アルゴリズムのパフォーマンスを評価する方法
確率的予測の優秀さを測る合成尺度
過剰適合とは何か、それを抑える方法は?
回帰モデルも予測に使うことができる
より複雑なテクニックなら能力は向上するか?
アルゴリズムを実社会で運用する際の課題
人工知能は統計学的手法を超えるか?
まとめ
第7章 標本調査の結果にどれほど確信が持てるか? 推定値と区間
失業者の調査はどのように行なわれているか?
性的パートナー数調査の統計量の許容誤差
まとめ
第8章 確率とは何か? 不確実性と変動性を伝える手段
確率理論は比較的新しく、実際に難解
期待度数で考えると確率は理解しやすくなる
確率がほかの事象に依存する条件付き確率
いずれにしても「確率」とは何か?
数学的確率分布に驚くほどしたがう現実の事象
まとめ
第9章 確率と統計をまとめる
不確定区間を確率理論を使って推定する
無秩序から秩序が生まれる中心極限定理
確率論で観測値から不確定区間を求めるには?
信頼区間を計算によって求める
世論調査の許容誤差はどれくらいか?
統計学で推測した許容誤差は信じられるか?
数学的確率分布から母数の経時的変化を考える
まとめ
第10章 問いに答えるのに必要なこと 発見の意味を知る
いよいよ仮説検定の段階へ
統計学的モデルにおいて「仮説」とは何か?
帰無仮説を使う正式な検定の考えかた
統計的有意性とP値の関係
確率論を使う検定のさまざまな実例
何度も有意性検定を重ねることの危うさ
ネイマン-ピアソンの理論による検定
まとめ
第11章 ベイズ統計学による推論の方法 経験から学ぶ
統計学の根本原理は統一されていない
ベイズ統計学のアプローチとは何か?
ベイズの定理で重要なオッズと尤度比
尤度比で証拠の確からしさを考える
ベイズ統計学による推論のさまざまな利点
統計学界の長年にわたるイデオロギーの戦い
まとめ
第12章 統計学の誤用・悪用・誤解釈
統計学が正しく運用されていない場合
「再現性の危機」とはどのような問題か?
意図的なごまかしは統計学で発見できるか?
「好ましくない研究行為」とは何か?
好ましくない研究行為が行なわれる頻度
結果の伝達の段階でも機能不全が起こる
文献として表に出る研究はどのようなものか?
広報担当により誇張されるプレスリリース
注目を惹くためにマスメディアがすること
まとめ
第13章 統計学をよりよくするには?
統計学に関わる3つのグループ
研究の現場での統計学の実践を改善する
統計の伝達を改善し誇張をなくす
質の低い実践をチェックする人たち
発表バイアスを見つける方法
統計学による主張や記事を評価する
統計学的証拠に基づく主張への10の問い
データ倫理はより重要になるだろう
優れた統計科学の例――総選挙の出口調査
まとめ
第14章 おわりに
効率的な統計実務のための10箇条
謝辞
用語集
原注