2023年11月30日木曜日

阿波と古事記06

阿波と古事記06

阿波と古事記06

6.古事記の主人公は、阿波の穀靈(こくれい)・大宜都比売神(おおげつひめがみ)である!
 全国からの参詣者が絶えない伊勢神宮の外宮に祀られる豊受大神(とようけのおおかみ)と大宜都比売神(おおげつひめがみ)とは同一神である、と大日本神名辞典や本居宣長著「古事記伝」、広池千九郎(ひろいけちくろう)著「伊勢神宮と我が国体」などに書かれています。大宜都比売と豊受大神が同一神であるので、全国の人は阿波の穀靈・大宜都比売神を拝んでいるのです。
 古事記に粟国(あわのくに)は大宜都比売と記述され、この神だけが国生みより登場し続ける唯一(ゆいつ)の神です。伊邪那岐命(いざなぎみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)が、国生みの後に生み、須佐之男命(すさのおうみこと)が殺した場面などの計四回、大宜都比売名で登場しています。また、食粗の神として豊受大神・保食神神様など名を変えて何度も登場してきます。国生みで生まれた他の神は、それ以降一度も登場しないのですから古事記の主人公は大宜都比売になります。古事記に書かれている大宜都比売神は、先に現れ、物語として何回も登場しますが、これに対して豊受大神は
 【次は和久産巣日神(わくむすひのかみ)です。この和久産巣日神の子が、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)といいます。】また、天孫降臨(てんそんこうりん)の際に【次に登由宇気神(とゆうけのがみ)、こは外宮(とつみや)の度相(わたらい)に座(いま)す神ぞ】
とたった一行ずつで書かれ、物語にまでなっていません。どぢらの神を重要視して書いているかがわかります。大宜都比売が主人公として書かれているのですから、古事記は阿波で起こった事を記録にとどめた書物になります。現代の社会では、天照大御神が「古事記」の主人公であるように思われていますが、天照大御神は表に現れている神であって、須佐之男命と天照大御神の物語・天の岩戸の物語・葦原中国の平定・天孫降臨の物語など多くの場面に登場してきます。しかし、よく読めば、大宜都比売神が後ろに隠れているのがわかります。
 伊勢神宮の内宮所伝本、倭姫命世紀の冒頭にも、次のように記されています。(左参照)
 何よりも大切なことは「ミケツ神である豊受大神〈大宜都比売神〉と現身(うつせみ〉の天照大御神が、前もってかくれたる契りをむすび、ながく天下を治めた」と記録していることです。ここに大嘗祭、当夜の穀靈と現身との合体「かくれたる契り」が、伊勢神宮「内宮・外宮」のペアという表現と一致しているのです。
 また、太陽神であるのに伊勢神宮も天皇家も太陽を祭る神事が見あたりません。表向きは天照大御神を祀るといいながら、実際は夜に大宜都比売を祀る稲〈食物)の神事であり、また天皇がなされている祀りは、田植えや稲刈りを始とする新嘗祭・神嘗祭が一番重要な祭りです。それらを見ても太陽の祭りではなく、食粗の祭りです。食糧の神は、阿波日の大宜都比賣しかいないのですから、古事記は、阿波を舞台として繰り広げられた話です。
 これまで書いてきたように、大宜都比売神と豊受大神は、同一神であり、全国の人が伊勢神宮の豊受大神を拝むということは、根の国の阿波の穀靈・大宜都比売神を拝んでいることになります。
 伊勢神宮の内宮・外宮と同じように阿波では、徳島市国府町矢野神山八倉比売神社(祭神大日�貴・天照大御神、またの名を八倉比売神)と徳島県名西郡神山町神領字上角の上一宮大粟神社(祭神大宜都比売神またの名を八倉比売神)として祀られています。このように、大嘗祭の時の現身と穀靈の合体を、阿波のように八倉比売神という同一の名で表しているところは、日本中を捜しても阿波以外には、どこにも存在しません。以上この事実からみても古事記の上巻は、阿波古代の物語だったのです。

《国土の形成》
 そこで、天(あま)つ神たちはイザナ岐命(いざなぎのみこと)、イザナ美命(いざなみのみこと)の二柱の神に「この漂っている国土をよく整えて作り固めよ」と仰(おお)せられ、玉(たま)で飾った天の矛(あまのほこ)を授けて、おまかせになった。そこで二神は、天(あめ)の浮橋(うきはし)に立たれ、その矛を刺し下ろし、かき廻して引き上げる特、その矛の先からしたたり落ちる塩水が、積もりかさなって島となった。これが、淤能碁呂島(おのころじま)である。
 天(あめ)より、その島にお降りになり、天の御柱(あめのみはしら)を立て、りっばな御殿をお建てになった。そしてイザナ岐命(ぎのみこと)が女神のイザナ美命(みのみこと)に「おまえの身体は、どのようになっているのか」とたずねられたので、女神は「私の身体はだんだん整うてきましたが、欠けているところが一所(ひとところ)あります」とお答えになった。そこでイザナ岐命は「私の身体もどんどんとできあがり整ってきたが、余分なところが一所あります。それで、この私の身体の余分なところをあなたの欠けているところに刺し塞(ふさ)ぎ整(ととの)えて、国土を生み出そうと思うが、どうだろうか。」とおっしやった。すると、イザナ美命は「それは、いいわ」と答えになった。
 そこで、イザナ岐命が「それなら、私とおまえは、この天の御柱(あめのみはしら)を回り、出会った所で夫婦(めおと)の契(ちぎ)りを結ぼう」とおっしゃった。「おまえは、右から回りなさい、私は左から回って出会いましょう」と約束して、回りはじめて出会った時、イザナ美命が、先に「まあ、なんてすてきな男性でしょう!」と言った。その後で、イザナ岐命が「ああ、なんとかわいい乙女だ!」とおっしゃった。それぞれ言い終わった後に、イザナ岐命は、妻に「どうも女性が先にものを言うのはよくない」と言いながら寝所(ねどこ)で子をつくりはじめましたが、生まれた子は、水蛭子(ひるこ)であった。この子は葦船(あしぶね)に入れて流しました。次に淡島(あわしま)が生まれたが、これも子には入れなかった。

《大八島国の生成》
 そこでニ柱(ふたはしら)の神が、相談して「いま、私たちが生んだ子たちは思わしくない。やはり、天つ神(あまつがみ)の所に行って、ご意見をうかがおう」といって、さっそく高天の原(たかまのはら)に一緒に上(のぼ)って、天つ神に神意(しんい)をうかがいました。
 そこで、天つ神の神意により、太占(ふとまに)という占(うらな)いをしたところが、「女性が、先に言葉をかけるのは良くない。また帰り降(くだ)って、あらためて言葉をかけなおすがよい」とのお告げがありました。
 そこで、すぐ帰り降って、また、その天の御柱(あめのみはしら)を前のように行き廻(めぐ)った。そして今度は、イザナ岐命が、先に「ああ、なんと美しい乙女だろう」といい、あとからイザナ美命が、「まあ、ほんとにりっばな男性ですわ」と言葉をかえしました。このようにお互いに言葉をかけあった後に、生まれた子が、淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけじま)でした。
 次に伊豫之二名島(いよのふたなじま)ができました。この島の本体は、一つですが、面(おも)が四面(よんめん)あり、面ごとに名がついています。伊豫国(いよのくに)を愛比売(えひめ)といい、讃岐国(さぬきのくに)を飯依比古(いひよりひこ)といい、粟国(あわのくに)は大宜都比売(おおげつひめ)といい、土佐国(とさのくに)を建依別(たけよりわけ)といいます。
 次に隠伎之三子島(おきのみつごじま)を生みました。またの名は、天之忍許呂別(あめのおしころわけ)といいます。
 次に筑紫島(つくのしま)を生みました。この島もまた本体は一つで四面あり、面ごとに名がついていました。筑紫国(つくしのくに)は白日別(しらひわけ)といい、豊国(とよのくに)は豊日別(とよひわけ)といい、肥国(ひのくに)は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)といい、熊曾国(くまそのくに)は建日別(たけひわけ)といいます。
 次に壱岐島(いきのしま)を生みました。またの名は、天比登都柱(あめひとつばしら)といいます。
 次に対馬(つしま)を生みました。またの名は、天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)といいます。
 次に佐渡島(さどのしま)を生みました。
 次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま)を生みました。またの名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)といいます。
このように、この八つの島を先に生んだので大八島国(おおやしまくに)と我が国を呼ぶのです。
 このようにして、大八島を生んだ後に、帰るとき、吉備児島(きびのこじま)を生み、またの名を建日方別(たけひかたわけ)といい。次に小豆島(あずきじま)を生み、またの名を大野手比売(おおのでひめ)という。
次に大島を生み、またの名を大多麻流別(おおたまるわけ)といい。次に女島(ひめしま)を生み、またの名を天一根(あめひとつね)という。次に知訶島(ちかのしま)を生み、またの名を天之忍男(あめのおしを)といい。次に両児島(ふたごのしま)を生み、またの名を天両屋(あめふたや)といいます。
吉備児島から天両屋まで合わせて六島である。

《神々の生成》
 イザナ岐命(ぎのみこと)・イザナ美命(みのみこと)は、国を生み終えて、さらに神を生み出し、そうして生んだ神の名は、大事忍男神(おほことおしをのかみ)、次に石土毘古神(いはつちびこのかみ)を生み、次に石巣比売神(いはすひめのかみ)を生み、次に、大戸日別神(おほとひわけのかみ)を生み、次に天之吹男神(あめのふきをのかみ)を生み、次に大屋毘古神(おほやびこのかみ)を生み、次に風木津別之忍大男神(かざもつわけのおしをのかみ)を生みました。次に海の神、名は大綿津見神(おほわたつみのかみ)を生みました。次に水戸(みなと)の神、名は速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)。次に女神の速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)を生みました。この速秋津日子(はやあきつひこ)・速秋津比売(はやあきつひめ)の二神が河と海をそれぞれ分担して生んだ神の名は、沫那芸神(あわなぎのかみ)、次に沫那美神(あわなみのかみ)。次に頬那芸神(つらなぎのかみ)、頬那美神(つらなみのかみ)。次に天之水分神(あめのみくまりのかみ)、国之水分神(くにのみくまりのかみ)。次に天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)、国之久比著母智神(くにのくひざもちのかみ)です。次に風の神、名は志那都比古神(しなつひこのがみ)を生みました。次に木の神、名は久久能智神(くくのちのかみ)を生みました。次に山の神、名は大山津見神(おほやまつみのかみ)を生みました。
次に野の神、名は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を生みました。またの名は野椎神(のづちのかみ)といいます。この大山津見神(おほやまつみのかみ)・野椎神の二神(のづちのかみ)が、それぞれ分担して生んだ神の名は、天之狭土神(あめのさづちのかみ)、国之狭土神(くにのさづちのかみ)。次に天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)、国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)。次に天之闇戸神(あめのくらどのかみ)、国之闇戸神(くにのくらどのかみ)。次に大戸或子神(おほとまとひこのかみ)、大戸或女神(おほとまとひめのかみ)。次に生んだ神の名は烏之石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)、またの名は天鳥船(あめのとりふね)といいます。
 次に大宣都比売神(おおげつひめのかみ)を生みました。次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやおのかみ)を生みました。またの名は、火之弦毘古神(ひのかぐつちのかみ)といい、またの名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)といます。この子を生んだために、イザナ美命はみほとをわずらい病んで床にふされました。その時もどされた嘔吐(へど)からできあがった神の名は、金山毘古神(かなやまびこのかみ)、次に金山毘売神(かなやまびめのかみ)です。次に糞(くそ)からできあがった神の名は、波に夜須毘古神(はにやすびこのかみ)、波に夜須毘売神(はにやすびめのかみ)です。次に尿(ゆばり)からできあがった神の名は、弥都波能売神(みつはのめのかみ)といい、次は和久産巣日神(わくむすひのかみ)です。この和久産巣日神の子が、豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)といいます。
 そして、イザナ美神(みのかみ)は、火神(ひのかみ)を生んだことによって、ついにお亡くなりになりました。
 イザナ岐(ぎ)・イザナ美(み)の二神がいっしょに生んだ島は、十四島で、また、神は三十五神である。
これらは、またイザナ美神が亡くなられる前に生んたものです。ただし意能碁呂島は生んだのではありません。また、蛭子と淡島とは、子の数には人れません。

藤田嗣治は蛍光発光が異なる3種の「白」を使い分けていた - 再評価につながる発見 | TECH+(テックプラス)

藤田嗣治は蛍光発光が異なる3種の「白」を使い分けていた - 再評価につながる発見 | TECH+(テックプラス)

藤田嗣治は蛍光発光が異なる3種の「白」を使い分けていた - 再評価につながる発見

国立情報学研究所(NII)とポーラ美術館の両者は11月27日、藤田嗣治(レオナール・フジタ)の絵画『ベッドの上の裸婦と犬』(1921年、ポーラ美術館蔵)に、異なる発光色(蛍光)を持つ白い顔料を発見したことを発表。フジタが1920年代当時の芸術鑑賞のスタイルである紫外線が含まれる自然光の下において、複数の白色顔料の蛍光発光を用いて肌質感を再現しようとしていたことが考えられると共同で報告した。

  • フジタの絵画における蛍光発光

    フジタの絵画における蛍光発光(出所:共同プレスリリースPDF)

同成果は、NII、ポーラ美術館、東京藝術大学、東京大学、京都大学、三木学氏らの共同研究チームによるもの。今回の研究の内容については、12月13日よりポーラ美術館において実作品(フジタの師匠の師匠にあたるラファエル・コランの作品を除く)と共に紹介される予定だ。

フジタは、1920年代に「乳白色の肌」「乳白色の下地」と称された肌質感を再現するような独特の技法を使用していたことで知られる、世界で最も知られる日本人画家の1人だ。しかし従来の研究では、その物質的な組成しかわかっておらず、たとえばベビーパウダーに含まれるタルクを使用し、油分による表面の光沢をとって滑らかな面を作ると同時に、水性の墨が弾かないように工夫していたことが、2008年に東京藝術大学などから報告されている。

またその際、特徴的な乳白色はシルバーホワイト(鉛白)とカルシウム化合物を乾性油とともに混ぜることによって作られていることも明らかにされた。しかし、フジタの作ったマチエール(絵肌)が、通常は油絵に使用されない非常に繊細な素材を用いてつくられ、1920年代の多くの絵画は、早い段階で修復される場合が多く、修復に際して画面保護用のニスが施され、フジタの意図していた肌質感の再現がどのようなものなのか不明な点が多くあったとする。そこで今回の研究では、1921年という早い時期に制作され、修復やニスの塗布が行われていない『ベッドの上の裸婦と犬』を対象に、光学特性から研究を進めたという。

研究ではまず『ベッドの上の裸婦と犬』に紫外線を当てたとのこと。すると背景のシーツ部分がやや緑に、肌部分が青白く、唇や手足の爪、肘、乳首などが赤く蛍光発光していることが確認されたとする。中でもシーツの部分と肌の部分は、完全に領域が分割されていると同時に、肌部分には生々しい赤がポイントで入っているため、紫外線によって蛍光発光する顔料を意図的に使用していると研究チームは推測。そして、紫外線を含む自然光のもとで蛍光発光するという光学的な効果によって、肌質感を再現しようとしていたことが考えられるとした。

しかしフジタのほとんどの作品は修復されている上、戦後の美術館は劣化しないように紫外線をカットしているため、フジタが顔料を使い分けていた意図が伝わらなくなっていた可能性が高いといえるとする。1920年代当時「グラン・フォン・ブラン(素晴らしき白)」と称されたフジタの絵画だが、今回の発見は、修復と鑑賞環境の変化により、それらの絵画がまったく違ったイメージになっていた可能性を示唆するものとする。

次に、2011年の組成分析によって報告されたフジタが使用していた白い顔料である、炭酸カルシウム、タルク、硫酸バリウムの蛍光成分が調査された。その結果、炭酸カルシウムは青緑、タルクは緑、硫酸バリウムは赤の蛍光発光が見られたという。実際に紫外線を当てた『ベッドの上の裸婦と犬』の肌の色には青い蛍光発光が見られるが、炭酸カルシウムがいったい何の顔料であるかは不明だという。そこで、同じく炭酸カルシウムを主成分とする胡粉の蛍光成分を調査すると青い蛍光発光が見られたことから、フジタは墨だけではなく、肌の白に胡粉という日本画の顔料を使用している可能性が浮上してきたとする。フジタが墨を使っていたことから考えると、胡粉の使用も不思議ではないが、このことは今まで考えられていた以上に、日本画の画材を西洋画に取り入れたことが示唆されていると考察している。

  • 白色画材の蛍光発光

    白色画材の蛍光発光(出所:共同プレスリリースPDF)

また、フジタがそれらの蛍光成分の異なる顔料をどのような意図で描き分けたのかを調べるために、蛍光発光が目立つ顔部分や足部分の蛍光発光の成分分離が行われた。その結果、肌に多く含まれる赤・青色成分が抽出されたといい、足部分での解析では、顔部分よりも顕著な赤と青の使い分けがなされており、指の腹や足裏などの膨らみのある箇所には赤色成分を持つ画材が使用されていることが判明した。

  • 蛍光スペクトル解析による蛍光成分の分離

    蛍光スペクトル解析による蛍光成分の分離(出所:共同プレスリリースPDF)

さらに研究チームは、フジタが実際の人間の肌の構造的、光学的な再現を意図していたと考察。足部分に関して人の肌の持つ光学特性である肌表面反射と肌内部散乱成分を観測する技術を用いて、絵画から抽出された成分との比較を行った。すると、波長の違いによる肌内部への透過具合の違い(赤い波長の方が透過する)にも起因して、肌表面の光は、硬い印象があり、肌内部の光は赤みを帯びていて柔らかい印象があることが明らかにされた。研究チームはこの結果について、フジタの絵画において赤成分が膨らみのある箇所に使われていることと似ており、フジタが実際の肌に近い光学特性を再現していたと考察することができるとしている。

  • 分離された蛍光発光成分と肌の表面下散乱との比較

    分離された蛍光発光成分と肌の表面下散乱との比較(出所:共同プレスリリースPDF)

イスラエルTVが報道した「イスラエルの失われた10支族と日本」(久保有政出演/解説)

2023/09/14
秦氏は日本を乗っ取る力を持っていたが、そうはしなかった。
ユダヤ人と日本人は一緒に「日本」を作った。
その意味で同祖である。
逆に日本人はその後ユダヤの痕跡を消した。








































1976 – 『時代劇映画の詩と真実』(伊藤大輔著/加藤泰編) 自筆サイン入り栞付き マキノ雅弘監督旧蔵品  – ] 映画の郷 [

1976 – 『時代劇映画の詩と真実』(伊藤大輔著/加藤泰編) 自筆サイン入り栞付き マキノ雅弘監督旧蔵品  – ] 映画の郷 [

1976 – 『時代劇映画の詩と真実』(伊藤大輔著/加藤泰編) 自筆サイン入り栞付き マキノ雅弘監督旧蔵品

'Poesy' and 'Truth' in Jidai-geki Films (Ito Daisuke [Author], Kinema Junpo-sha, 1976) Dedicated to Makino Masahiro

伊藤大輔監督が新聞や映画雑誌に寄稿したエッセイと、加藤泰氏との対談、フィルモグラフィー、旧作のスチル写真や撮影風景写真を軸にまとめた一冊。

名古曽ノ滝は、今でも遺跡としてわずかに石組みだけが残っている。場所は大沢ノ池の北方の田んぼのはずれで、現在の町名は北嵯峨山王-そこに旧友清水宏君の居宅がある。

清水君との思い出は、ことごとく「食」につながる。彼は無類の美食家で、それがまた、うまい物を見つけると、それを友人にも食べさせないと気がすまない。

「名古曽ノ滝」


龍安寺道停留所の踏切ぎわに「マキノ衣装」の倉庫があり、その二階に、いまだ世に出ぬ阪東妻三郎とそのグループが寝泊まりしていた。

「龍安寺界隈」

前半の3部までは昭和30年代後半~40年代中盤に新聞で連載されていた一連のエッセイをとりまとめています。個人的に面白いと思ったのは京都新聞連載の『京都 – 町と人』。清水宏、小津安二郎、稲垣浩、伊丹万作、田坂具隆、牧野省三、山中貞雄…京都の風景や地名がそのまま映画史の記憶とリンクしている様子が伝わってきます。

先生: 唐沢[弘光]君は、他のキャメラマンと違う独特なところがありましてね。キャメラマンはピントはキャメラのレンズを通して右の眼で合わせ、撮影の際には左の眼でキャメラの左側に付いているファインダーを覗くのが通例でしょう。おそらく百人が百人。ところが、唐沢君は、キャメラの本体へ望遠レンズ(長焦点)を装着し、キャメラの左側に単焦点(ワイド)レンズのアイモキャメラをガム・テイプで装着する(このほうはボタンを押し続けておれば自動的にフィルムが廻る)、右手で望遠レンズ装着のキャメラ本体のクランクを廻しながら、同時に左手でアイモの自動回転を操作したり、ストップしたり……、両眼両手づかいの稀有な特技の技術者で。

第4部には100頁を超える対談を収録。リラックスした雰囲気の中で思い出話を咲かせている感じで撮影現場でのエピソードがあちこちに織り交ぜてあります。唐沢弘光氏が2台のカメラを同時に使用していたエピソードは初耳でした。『斬人斬馬剣』も同氏の撮影ですのでそういった視点から見直してみるのも楽しそう。

先生: 夢が多く、目の前に幻影がチラついているんだ。とくに私の場合はキリスト教への幻影が頭の芯にありますから、甘くて美しくて暗いんですね。その暗さがいつまでも尻尾となって私の仕事の上に残っていますね。

この書籍の出版時、伊藤大輔氏は自筆の署名入りの栞を付したものを友人に謹呈したそうです。こちらはマキノ雅弘氏旧蔵の一冊。同監督に縁のあった人物が保管していたものを譲っていただきました。和紙の短冊を使った栞で、空気に触れていた上部に色褪せが目立つ以外は綺麗な状態です。「マキノ先生は多分パラパラとしか見られておられないと思います」とのお話。戦前邦画を代表する二監督の手を経てきた一冊、と考えると感慨深いものがあります。

[出版年]
1976年

[発行所]
キネマ旬報社

[ページ数]
342

[データ]
カバー付 A5判 初版 定価2500円

[ISBN]
0374-01004-1320

日本映画の黄金時代を築いた、牧野省三・マキノ雅弘 | 宣伝会議デジタル版

日本映画の黄金時代を築いた、牧野省三・マキノ雅弘 | 宣伝会議デジタル版

日本映画の黄金時代を築いた、牧野省三・マキノ雅弘

広告費の削減や人々のマスメディア離れが言われはじめて久しいが、それでもなお今日の日本において広告・メディアの力はその強さを持ち続けている。その力は、先人たちから脈々と受け継がれてきた精神、そして技術を発展させることによって成り立っているにほかならない。先人たちの優れた功績を見つめ直し、原点に立ち返ることで、広告・メディア界の現在、そして今後を考える。

創成期をリードした日本映画の父

牧野省三(1878(明治11)年9月22日~1929(昭和4)年7月25日)は、「日本映画の父」と言われる。日本映画製作の創始者であり、最初の職業的映画監督であり、数多くの映画スターを育てた。牧野省三の情熱と創意が日本映画を急速に大衆の娯楽にし、その後に拡がる映画の黄金時代を作る道筋をつけた。

京都・千本座を経営していた省三が、当時、活動写真と呼ばれていた映画の世界に入ったのは、興行師・横田永之助から活動写真製作の依頼を受けたのがきっかけだった。1908(明治41)年製作の第1作『本能寺合戦』は、千本座に出演していた一座をそっくり起用し、芝居を実際の京都・真如堂の境内で行う、活動写真らしい方法だった。森蘭丸奮戦の場面は、寺の山門を使った。

第2作『菅原伝授手習鑑』車曳の段、『明烏夢淡雪』『安達原三段目袖萩祭文の場』『桜田騒動血染雪』など数作を続けざまに撮影したが、横田と省三の契約は1本当たりの製作費が30円であり、凝り性の省三の作り方では毎回大幅な赤字になり、6作目では「これではできない」と断ったが、横田から「種とり(撮影)のできる人間は君しかいない」と懇願されると、好きな仕事なので省三は引き受けてしまうという状況だった。

牧野省三は金光教の熱心な信者だった。岡山県玉島町にある金光教本部に活動写真成功の祈願に行った帰り、運命的な出会いともいうべきことが起こった。この町の小屋で興行していた俳優・尾上松之助の芝居を偶然見たのである。小柄だが全身から発するオーラの強さに特別の才能を直感した省三は、その場で千本座の芝居出演を依頼した。そして千本座で松之助一座が大当たりすると、活動写真出演を熱心に誘った。はじめは乗り気ではなかったが、省三の熱意に負けて、松之助はしぶしぶ承諾した。

1909年製作『碁盤忠信・源氏礎』は尾上松之助主演の記念すべき第1作である。撮影は千本座裏の大超寺境内。そして省三は横田永之助に製作費を大幅に改定させた。第3作『石山軍記』出演のとき、松之助が目玉をむいて歌舞伎の見得を切ったのが観客に大いに受け、それ以降、 "目玉の松ちゃん"と呼ばれるようになった。派手な立ち回りと敏捷な動きの松之助は爆発的な人気スターとなり、牧野省三は松之助主演映画を数多く作るようになった。尾上松之助は1926(大正15)年に死去するまで1000本以上の映画に主演しており、日本映画史上その名は特筆されているが、彼を見出し育てた省三の力も忘れられない。

牧野省三監督、尾上松之助主演の代表作の一つ『忠臣蔵』(1912年制作)は、横田商会京都撮影所設立記念映画であり、省三が6本創った「忠臣蔵映画」の第1作となるものだった。大石内蔵助、浅野匠頭、清水一角の3役を一人で演じ、まさに「松之助忠臣蔵」ともいうべき作品となった。

省三が作品づくりで最も大事にしたのは、次の3点である。

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マキノ光雄 - Japanese Wiki Corpus

マキノ光雄 - Japanese Wiki Corpus

マキノ光雄

マキノ 光雄(-みつお、1909年11月15日 - 1957年12月9日)は、日本の映画プロデューサーである。
「日本映画の父」として知られる牧野省三の第六子(次男)であるが、母方の姓を継いだので本名は多田 光次郎(ただ みつじろう)である。
子役時代の芸名は牧野 光次郎、別名として多田 満男、牧野 満男、マキノ 満男がある。
父の没後のマキノ・プロダクション御室撮影所総務部長、日活撮影所製作部次長、同多摩川撮影所企画部長、満洲映画協会娯楽映画部長、東映東京撮影所長、同社専務取締役製作部長を歴任した。

来歴・人物

1909年(明治42年)11月15日、京都市西陣に生まれる。
多田姓は母方の姓である。
子供の頃から父の映画に子役として「牧野光次郎」名義で出演、映画業界の息吹の中で成長する。
1921年(大正10年)に同志社高等学校に入学するとラグビーに熱中する傍らキリスト教に入信。
一方で、放蕩を尽くし中学卒業前日に退学させられる。
1927年(昭和2年)に勉強の名目で東京へ出るが、都内の映画館にかかるマキノ・プロダクションの映画の歩合金を横取りして飲み遊ぶ。
厳格だが愛情深い省三はこれを怒らず、京都に戻った光雄を御室撮影所に毎日連れていった。

1928年(昭和3年)の本宅の焼失、スターの大量退社に揺れるマキノプロで逆境に燃えた光雄の兄・弱冠20歳のマキノ雅弘は、山上伊太郎と時代劇の傑作『浪人街』を生むが、翌年の1929年(昭和4年)7月25日、省三が亡くなるとマキノプロの経営は困難になり1930年(昭和5年)に年末給料不払で争議が起こる。
この後、光雄は正博の反対を押して支援者を募ろうと上京し、逆に散財する。
結果、失敗するが正博はこれを叱らずに「光雄はいい勉強をした」としている。

正映マキノキネマで巻き返そうとした兄・正博は1932年(昭和7年)御室撮影所の焼失で全てを失い、マキノ一党を率いて日活に入社した。
光雄は現代劇の製作に携わり、製作部次長となる。
1934年(昭和9年)に多摩川撮影所(のちの角川大映撮影所)に移るが翌年、根岸寛一が同撮影所長となると企画部長として活躍。

1938年(昭和13年)に元宝塚の星玲子を主演女優として使ったことが縁で結婚した。
この年、森田佐吉が多摩川撮影所で根岸を排斥すると、根岸は職を辞し「満洲映画協会」(満映)の理事として大陸に渡る。
光雄も6月に根岸を慕って満州に渡り、満映の製作部長として言葉の通じず自然条件も風習も違う異国で苦労を重ねる。
李香蘭を満映入りさせ、ただの歌手から主演女優にするのに一役買う。
多くの映画をプロデュースし、満映の基礎を築く。
1943年(昭和18年)、東京支社詰めから、松竹へ移り松竹京都撮影所に拠る。

1946年(昭和21年)に根岸の誘いにより東京急行電鉄資本の東横映画(東映の前身)に参加するために松竹を退社する。
1949年の『白虎』まで牧野満男の名を使っていたが、同年の『獄門島』よりマキノ光雄の名を使うようになる。

1951年(昭和26年)4月1日に大川博社長のもと東映が発足すると、本社製作部長、ついで東映東京撮影所長に就任。
1952年(昭和27年)常務取締役製作本部長として製作の前線に立つ。
『ひめゆりの塔』(1953年)、『笛吹童子』(1954年)とヒットを飛ばし専務取締役となる。
中村錦之助、東千代之介、大川橋蔵、高倉健らの俳優を売り出す一方で、満州で苦労をした内田吐夢に『血槍富士』(1955年)を撮らせている。
やる気をなくし麻雀ばかりしていた若き日の深作欣二らを怒ることもなく、みんなで集まりエロ話をして笑わせていたという。
また、製作会議で起用しようとした映画監督(一説に今井正とされる)が思想的に「左翼であるから」と嫌う周囲を笑って、「右も左もあるかい。わいは大日本映画党じゃ。」と言い放ったという。

1957年(昭和32年)10月に病む。
同年12月9日没。
48歳の若さだった。
早死にしなければ次期東映社長といわれていた。

[English Translation]

2023年11月28日火曜日

阿波風No.11 天狗の間?

阿波風No.11

参考サイト:


阿波風No.11

http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa11/a11_03.html


《現在は西側より2列目の前側が土間に改造され7間である。鍵座敷は「天狗の間」(又の名を「入らずの間」)と云い,昔より伝説が言い伝えられ,当主しか入れない部屋となっている。》阿波忌部氏直系の三木家住宅 三木 信夫


参考動画:

忌部氏の直系、三木家へ。当主の三木信夫さんにお会いすることができました COZY FACTORYのヒグさんカナちゃんと行った【徳島・阿波の旅0... 

https://youtu.be/ywrI1tq1w_M?t=37m28s


ANYAチャンネル


https://youtu.be/pdht1WhV5ps?si=_2s0FhzpC3VIqHqf


参考サイト:

阿波風No.11

http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa11/a11_03.html


《現在は西側より2列目の前側が土間に改造され7間である。鍵座敷は「天狗の間」(又の名を「入らずの間」)と云い,昔より伝説が言い伝えられ,当主しか入れない部屋となっている。》


参考動画:

忌部氏の直系、三木家へ。当主の三木信夫さんにお会いすることができました COZY FACTORYのヒグさんカナちゃんと行った【徳島・阿波の旅0... 

https://youtu.be/ywrI1tq1w_M?t=37m28s


http://park17.wakwak.com/~happyend/namiawa/anonamikaze/awa11/a11_03.html

阿波風No.11

 三木家は剣山に連なる山の中腹,国道492号線より車道を3.5km登った三木山の頂上近い一帯を占める屋敷地(海抜552m)にある。
 三木家はその住宅も古いが,家に関する歴史も非常に古い。ここはもと旧麻植(おえ)郡三ツ木村で,三木氏は阿波忌部(いんべ)氏の直系であって,三ツ木という地名に因む苗字を帯びているが,忌部姓がその本姓であった。
 阿波忌部の史料は,「日本書紀の神代・上・宝鏡開始の章」まで遡る。斎部廣成撰「古語拾遺」によると,忌部(斎部(いんべ)とも記す)氏はもと中臣氏とも並ぶ大族で,共に朝廷の神祭に奉仕してきた。その宗家は天太玉命の子孫と伝え京師にあって皇室の神事に仕えた。阿波忌部は,日神の天石磐閉(あまのいはやこも)りで忌部の祖神である天太玉命と共に活躍した天日鷲命を祖とし,麻の播殖等に従事し,その居住の中心域はこれに因んで麻殖の郡名を負うに至った。その中心地には式内大社忌部神社が比定されており,重要な地位を占めていた事がうかがえる。阿波忌部は,狭義にとられるときは麻殖忌部とも呼ばれる。
 この忌部三木氏は上古以来歴代の践祚大嘗祭に「御衣御殿人(みそみあらかんど)」として,麁服(あらたえ)を貢進して,朝廷と深いつながりを持っていた。麁服(あらたえ)とは,天皇が即位後初めて行う践祚大嘗祭の時のみ,阿波忌部の氏人が調製・供納する麻織物で,天皇が神衣(かむそ)としてまつられるものである。
 三木家には,この様子を伝える鎌倉時代から南北朝時代に至る太政官符,官宣旨の写し等の古文書を保有している。麁服貢進は,南北朝動乱に至り以降中断していたが,復活して大正・昭和の大嘗祭にその任を果しており,平成の大嘗祭は,地域等の大勢の方々の物心両面での支援と協力で麁服を調進している。
 三木氏は鎌倉中期頃には,地頭職を勤める等その基盤は鎌倉時代に整えられており,戦国時代末期まで武士団の長として活躍した。特に,南北朝時代には,剣山を中心とする山岳武士の頭領として大きな勢力を有し,南朝に忠節を尽くし38年余その節を曲げなかった。特に最後まで守護細川氏に抵抗した武士は,三木氏・木屋平氏・祖谷山の徳善氏・菅生氏・落合氏・小川氏・西山氏・喜多氏・渡辺氏でこれを総称して「阿波山岳武士」と称された。三木家にはそれを証する安堵(あんど)状・後村上天皇論旨などの南朝文書や北朝方の諸文書を保有。これら中世文書45通は県の文化財に指定されている。当時の支配地は,旧三木村,旧中村山,高越寺庄内西の庄,1370年細川氏より割譲を受けた名東庄内(現徳島市名東町一帯)等で検断権を持っていた。
 江戸時代には,苗字帯刀で御目見得庄屋役を勤めるなどしている。
 現存する三木家住宅は,その子孫の居住する住宅で,1650年頃の建築で徳島県最古の民家である。建物は南に面し,裄行22.2m,梁間9.3m,寄棟造,茅葺で,南面・西面及び北面庇付亜鉛引鉄板葺である。平面は,室をほぼ棟通りで前後に区分し,それぞれ5列に区切る。当初は西側1列目,間口2間の台所土間と床上8室からなる整形8間取り構造で,鍵座敷を形成し,前面に内エンがある。現在は西側より2列目の前側が土間に改造され7間である。鍵座敷は「天狗の間」(又の名を「入らずの間」)と云い,昔より伝説が言い伝えられ,当主しか入れない部屋となっている。大黒柱が無く,柱は17cm角の釿仕上げの太いものでほぼ1間毎に立つ。建築年代が古いにもかかわらず,全体に開口部が非常に多く壁が少ない事で,前面及び上手側面の柱間は全て建具が入り開口となる大規模な家であり,しかも保存状態がよく,中世山岳武士の系譜をひく遺構としてきわめて価値が高いとして,昭和51年2月3日国より重要文化財の指定を受けた。箱入りの棟札は,腐朽して判読出来ない。学術的に今回,炭素年代測定法により建築年代を測定したいとの申出があり実施の予定である。
 現在の木屋平は,人口減少に伴う過疎化スパイラルの中にあって,暮らしの基盤不備や,山林や農地の荒廃等の危機に直面しているなかで,管理や整備等で年間4分の3在住しているが,やはり民家は住む事が活用で留守中の抜け殻の様な家が,生き生きとした暖かみを醸し歴史を語りかけてくる。

二重まぶたの遺伝子タイプが多い都道府県ランキング 通説とは違う意外な結果 - 産経ニュース

二重まぶたの遺伝子タイプが多い都道府県ランキング 通説とは違う意外な結果 - 産経ニュース
二重まぶたの遺伝子タイプが多い都道府県ランキング 通説とは違う意外な結果 - 産経ニュース
https://www.sankei.com/article/20231128-UC6V7NICMFDVRD3ZRYXNACZXW4/
2023/11/28

二重まぶたの遺伝子タイプが多い都道府県ランキング 通説とは違う意外な結果

ミドリムシの健康食品を手掛けるバイオベンチャーのユーグレナは27日、「二重まぶたの可能性が高い遺伝子タイプが多い都道府県ランキング」を発表した。約5万7000人分の出生地別の遺伝子解析データを数値化したところ、奈良県が52・81%で該当遺伝子タイプが最も多かった。また、近畿地方の2府5県すべてが14位以内に入っており、近畿は遺伝的に二重まぶたの人が多い傾向があるとした。ただ、現時点で近畿に集まっている理由は分からないという。

これまでの通説とは逆の結果

上位5位は、奈良県に次いで2位鳥取県▽3位三重県▽4位滋賀県▽5位福井県となった。一方、下位5位は、43位富山県▽44位愛媛県▽45位高知県▽46位鹿児島県▽47位沖縄県だった。

担当者は「二重まぶたは、日本人の起源である在来の縄文系と渡来の弥生系と関係していると言われ、縄文系の方が二重まぶたが多く、沖縄には縄文系が多いという説があった」と指摘。「ただ、この説と今回の結果は逆転しており、二重まぶたに関わる遺伝子は複数存在するのではないかと思われる」と分析している。

南アジアの人種が二重まぶた多い傾向

また、人種別では、南アジア集団(74・3%)▽ヨーロッパ集団(72・3%)▽ラテンアメリカ集団(66・6%)▽アジア集団(60・2%)▽東アジア集団(56・2%)▽アフリカ集団(44・1%)となった。同じアジアの中でも、日本を含む東アジア集団よりも、インドやバングラデシュなどを含む南アジア集団の方が二重まぶたになる遺伝子を持った人が多くいることがわかった。

今回の調査は、同社が11月に実施。「SNP:rs242975」という遺伝子型の塩基配列で、DNAを構成する塩基「T」を持っているほど、二重まぶたの可能性が高いとする研究結果を活用。同社がこれまでに集めた唾液から抽出した遺伝子データを解析した。

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【調査レポート】二重まぶたグッズのどんな内容の口コミを参考にする?

阿波市阿波町の「伊勢神社」 - まほろば・どなり

阿波市阿波町の「伊勢神社」 - まほろば・どなり

阿波市阿波町の「伊勢神社」

別の記事のついでにとり上げたのですが、とても大事な内容を含んでいる気がしてきたので、独立させておきます。

阿波市役所の北東2kmに、こんな神社があります。

まいったか~なんてことは申しません。

いくらなんでも、お伊勢さんまで阿波がもとだった、だなんて。

 

社殿、というもはばかられる、近所の寄り合い所のような建物です。

とても とても・・・

 

かたや、こちらはお正月の 伊勢神宮・内宮・・・

伊勢神宮公式サイト(English ver.) http://www.isejingu.or.jp/shosai/english/isemairi/isemairi.htm

でも、ちょっと待ってください。

伊勢国造って・・・

伊勢国造(いせ の くにのみやつこ/いせこくぞう)

伊勢国・伊賀国・志摩国を支配した国造。

本姓は 中臣 氏。
祖先
天日別命 または 天日鷲命 (同神説と別神説あり)。

前者は天御中主尊の12世孫、後者は神皇産霊尊の5世または7世孫という。

神武天皇東征 の際、伊勢津彦 を追って 伊勢国 を平定し、その娘の 弥豆佐々良比売命 を娶って彦国見賀岐建与束命(伊勢神宮外宮摂社・度会国御神社の祭神)を生ませたという。

おや?

神武東征が奈良盆地をめざしていたのなら、どうして途中で三重県を攻めたりしたんでしょうね。

その敵の娘を妻にしたということは、その後は協力関係に入ったということでしょう。

天日別命(または天日鷲命) の妃という 弥豆佐々良比売(ミツササラヒメ)、聞いたような名前だと思ったら、鵜野讃良皇女(ウノササラヒメミコ)がおられました。

のちの 持統女帝 です。

なにやら 藤原氏 がにおってきました…。

伊勢の国名の由来を個人のホームページ 「露草色の郷」 さんの 「国土としての始原史~風土記逸文」 から転載させていただくと:

伊勢國號 ( 萬葉集 註釋 卷第一)


伊勢の國の 風土記 に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊
(あめのみなかぬしのみこと)の十二世(とをまりふたつぎ)の孫、天日別命 (あめのひわけのみこと)の平治(ことむ)けし所なり。
天日別命は、倭磐餘彦の天皇( 武天皇 )、彼の 西の宮 より此の 東の州
(くに)を征ちたまひし時、天皇に隨ひて 紀伊の國 熊野の村 に到りき。

時に、(こがね)の烏 の導きの隨(まにま)に中州(なかつくに)に入りて、菟田(うた)の下縣に到りき。
天皇、大部
(おほとも) の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨(ともがら)、膽駒(いこま)長髓(ながすね)を早く征ち罰(きた)めよ」とのりたまひ、且(また)、天日別命に勅りたまひしく、「天津 の方に國あり。其の國を平(ことむ)けよ」とのりたまひて、即ち標の劔を賜ひき。
天日別命、勅を奉りて に入ること數百里
(いくももさと)なりき。


其の邑にあり、名を 伊勢津彦 と曰へり。

天日別命、問ひけらく、「汝(いまし)の國を天孫(あめみま)に獻らむや」といへば、答へけらく、「吾、此の國を覔ぎて居住(す)むこと日久し。命を聞き敢へじ」とまをしき。
天日別命、兵を發
(おこ)して其のを戮(ころ)さむとしき。

時に、畏み伏して啓(まを)しけらく、「吾が國は悉に天孫に獻らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。
天日別命、問ひけらく、「汝の去らむ時は、何を以ちてか驗と為さむ」といへば、啓しけらく、「吾は今夜
(こよひ)を以ちて、八風(やかぜ)を起して海水(うしほ)を吹き、波浪(なみ)に乘りて東に入らむ。此は則(すなは)ち吾が却る由なり」とまをしき。
天日別命、兵を整へて窺ふに、中夜
(よなか)に及る比、大風四もに起りて波瀾(なみ)を扇擧(うちあ)げ、光(てり)耀きて日の如く、陸(くが)も海も共に朗かに、遂に 波に乘りて東にゆきき
古語
(ふること)に、風の伊勢の國、常世の浪寄する國と云へるは、蓋しくは此れ、これを謂ふなり。

(伊勢津彦のは、近く 信濃 の國に住ましむ。)


天日別命、此の國を懷(なづ)け柔
(やは)して、天皇に復命(かへりごと)まをしき。
天皇、大く歡びて、詔りたまひしく、「國は宜しく國
(くにつかみ)の名を取りて、伊勢と號せよ」とのりたまひて、即(やが)て、天日別命の封地(よさしどころ)の國と為し、宅地(いへどころ)大倭 の耳梨(みみなし)の村に賜ひき。
(或る本に曰はく、天日別命、詔を奉りて、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶるを殺戮し、遵
(まつろ)はぬものを罰(きた)し平げて、山川を堺ひ、地邑(くにむら)を定め、然して後、橿原の宮に復命まをしき。)

さあて多くのキーワードや連想されるエピソードが出てきました。

土成に関する地名として、菟田(うた) とは (うのたお)峠 のことだと、たしか岩利大閑氏が指摘しておられます。

阿波説でも諸説あるようですが、神武帝の行程を岩利氏が下のように想定しておられます: 

『道は阿波より始まる(その二)』 p.18

一旦瀬戸内側から峠を越えて攻め込もうとしたものの、北からの侵入が "太陽に向かう"逆光であったこともあり、退却。コースを変えたという可能性があるのではないでしょうか。

高木隆弘氏はJR高徳線がトンネルで抜けている大坂峠を越えて板野町川端(富の谷;現在の 板野IC あたり)がはじめの戦闘の場所だったのではないか、とされています(『記・紀の説話は阿波に実在した』 p.114)。

ちなみに(阿波説をご存じの方にはご承知の通り)、近畿地方に大坂や奈良、難波などという地名がつけられるのは記・紀が書かれる頃まで後のことだそうです。

地名の考証は のらねこ先輩がとても詳しく書かれています:

→ 仁徳天皇は讃岐の天皇 3 http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/49899722.html

東征というのですから、神武軍の拠点は阿波西部の山間部ではないかと想像するのですが、いずれにせよ、日向から奈良までの大遠征などではなく、もっと狭い範囲でおこった部族間の (それも族長どうしの話し合いが中心の) 抗争だったというのが現実的ではないでしょうか。

また、物語の展開は国譲りでの 建御雷之男(タケミカヅチオ)の活躍と 神武東征 での 天日別命 の話が重なっているように見えます。

ひとつの傍証として、三重県桑名市、伊勢湾の最深部にある 「桑名宗社」 という神社を挙げておきます。

この神社は 「桑名神社」「中臣神社」 の両社が合祀されたもので、古来桑名の総鎮守として桑名首(くわなのおびと)の祖神を祀っているとされます。

桑名神社は平安時代、延喜式神名帳にその名の見える古社で、御祭神は 天照大御神 の第三御子 天津彦根命 と、その大神の御子 天久々斯比乃神 の二柱です。

天津彦根命は国史にも見えた様に御子孫の殊に御繁栄になった神であり、また天久々斯比乃命は神徳霊妙な神で、桑名首(上代桑名の豪族)の祖神であるので桑名の開祖として仰がれています。

中臣神社も延喜式神名帳にその名を見える古社であり、桑名神社と共に延喜式内社とされています。中臣神社は神護景雲三年(769年)に常陸国鹿島社(茨城県の鹿島神宮)より建御雷神霊が御通過になった基址に祀られるようになりました。

御祭神 天日別命 は神武天皇御創業の時の功臣で 伊勢国造の遠祖 として仰がれています。

中臣神社は山上にありましたが、正応2(1289)年に桑名神社の境内に遷し奉り、永仁4(1296)年に奈良 春日大社 から春日四柱神を勧請合祀してからは「春日さん」と呼ばれています。

その後、御社は繁栄の一途をたどり、織田信長・徳川家康などより神領の寄進、本田忠勝・松平定綱などの歴代桑名城主から篤く崇敬され、明治になってからも元年の御東行・二年の東京遷都と、共に天皇・勅使が御泊り するなどされました。

「桑名宗社」ウェブサイトより http://www.kuwanasousha.org/

中臣~ 天日別命 ~伊勢国造。

そこに合祀されてくる 春日大社 の4柱とは、藤原氏が崇敬する 建御雷神(タケミカヅチ)をはじめとする神々。

やはり重なっていると、だれもが思ったのでしょう。

 

天日鷲と天日別が同神とは思えないのですが、それもまた今後のテーマに。

岩利大閑氏は 「神武天皇は事代主命の投影ではないのか」 と書いておられます。

それがほんとうなら、とってもややこしいことになりそうです。 

 

阿波町のすぐ東が、これまた重要な遺跡や神社が居並ぶ脇町。

どんどん想像(妄想) が膨らんでゆきます。 

見渡す限り、気持ちいい田園地帯。

 

高越山ウォッチャーのすえドン先輩が周辺を含めて詳しく紹介されています。

→阿波市伊勢の「伊勢神社」と「古賀茂神社」と「高越山」♪  http://sueyasumas.exblog.jp/16744060/

 

古賀茂神社・・・?

次々と現れる、足跡。

この鳥居の横の古い木の鳥居が、はるか 気延山 に向いているとは気付きませんでした。

「八倉比売神社」 との関係は・・・。

さらに日開谷川を越えて市場町に入ってすぐ、尾開おばり八坂には 「天皇神社」 だなんていう神社まで。

そういえば、タケミカヅチの父は 伊都之尾羽張(イツノオハバリ) というのですが、関係あるのかな。

いやはや、ほんとうにキリがないので、とりあえずここまで。

:伊勢神社

 

 

  • 阿波市阿波町の「伊勢神社」