2023年7月31日月曜日

古事記に隠された聖書の暗号 | 石川 倉二 |本 | 通販 | Amazon


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2015年10月14日に日本でレビュー済み 
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 古事記と旧約聖書・新約聖書との共通点を解明することによって、日本創成の謎を解き明かしている本書はある意味でユニークな名書であるが、わかりにくい迷書でもある。
 本書の賛同・疑問点は下記の通りであるが、元々古事記は蘇我馬子によりオリジナル製作されたが、大化の改新時の焼失により、天武天皇の命で稗田阿礼・太安万侶によって復元された復古版が現存する古事記ではないか、つまり、蘇我馬子が原本製作、稗田阿礼・太安万侶が復古版製作の「古事記2回製作説」を提案する。

(1)古事記は、奈良時代の天武天皇の命で稗田阿礼に誦習させた『帝紀』と『旧辞』を和銅四(711)年、元明天皇の命を受けた太安麻侶が撰録したものとされ、上・中・下の三巻からなる。『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語り部などが暗誦して天皇の大葬の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃に書かれたものである。
これに対して、著者によれば、古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説だが、
 「本件は、古事記の序文をどこまで信用するかという立場の違いに基づく見解の相違であると思います。もし、古事記の序文をそのまま信じる立場であれば、古事記編纂の目的は、正しい歴史を後世に伝える為であり、藤原不比等が史実を改竄したという事実はありえません。H・Yさんと私とでは、「古事記の前文の内容をそのまま信じるわけではない」という点では一致していると思いますが、私の方は、古事記の作成者(編集者)や作成年の方も信じていないので、その点では相違しています。(※もし、H・Yさんが、古事記に真の作成者は藤原不比等であると考えているのなら、相違点は作成年だけになります)  また、そもそも、完成年以前の問題として、古事記には、作成者は太朝臣安麻侶と稗田阿禮だと明記されているのですから、その内容を信じるのであれば、私の「古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説」は論外でしょう。この説については、拙著にも記載した通り、私の中でそれほど固まっていないところです。」とコメントしている。

(2)『先代旧事本紀=旧辞』は物部氏の伝承を『古事記』『日本書紀』よりも遙かに詳しく伝えた歴史書であるが、物部氏の祖先は饒速日尊・スサノオ尊であり、太安万侶は物部氏末裔なので『旧辞』に精通していたと思われるが、ヘブル語・アラム語、古代ギリシア語などで書かれていたはずの旧約聖書・新約聖書を太安万侶が理解する言語能力があったのか不明だが、恐らく太安万侶の編纂作業部下に、ヘブル語・アラム語等を自由に操る旧約聖書・新約聖書に精通した秦氏が存在したと思われる。太安万侶はそれらの原書を理解して都合よく古代天皇に当てはめたと思われる。
著者によれば、
 「日本という国を創ったのがイスラエルの失われた十部族であるのなら、ヘブル語の旧約聖書を持って渡来し、代々、ヘブル語の読み書きは引き継がれてきたのではないかと思います。よって、旧約聖書は原書を読むことができたでしょう。 また、新約聖書については、日本にもたらされたものがヘブル語のものなら読めたでしょうし、アラム語やギリシア語のものであれば、秦氏等を介して理解したのでしょう。」 という見解には賛同する。

(3)著者によれば、
「古事記編纂の大きな目的のひとつが、天皇がダビデの血につながる者であることをしめすことで、日本に来たのは<失われた十部族>のうち八部族であるが、ダビデが属するユダ族は含まれていない。個別にダビデの血につながる者が日本に来たのではないでしょうか」としている。 
 応神天皇283年に中央アジアのカザフスタンにある『弓月国(クンユエ)』から弓月君(ユダ族秦氏の祖)が127県の1万8670人を連れて渡来し、原始キリスト教、養蚕・機織・銅の鋳造・清酒・雅楽などの日本らしい文化を伝えており、古事記編纂作業の裏方としてダビデの血につながるユダ族の秦氏、例えば聖徳太子側近での一人であった秦河勝などの貢献があったと思われる。
 その後に秦氏の血が天皇家に入っているのは確実なので、そのような観点から古事記編纂の目的が果たされているのは間違いない。

(4)神武天皇の和風諡号「神日本磐余彦天皇(カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト)」は、ユダヤ人言語学者ヨセフ・アイデルバーク氏によると、これはヘブル(ヘブライ)・アラム語で「カム・ヤマトウ・イベリ・ペコ・シュメロン・マクト」と聞こえ、これは「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味し、サマリアは北イスラエル王国のことで、サマリアの王とはエフライム族の王家のことなので、初代神武天皇の古代天皇家は古代北イスラエル王国王家エフライム族出自であり、古代大和朝廷は古代北イスラエル王国再興であることを証明しているが、 古事記の編纂目的は「天皇がダビデの血につながる者であることをしめすこと」の著者主張とは矛盾している。

(5)古事記は表の物語に旧約聖書のエッセンスを散りばめたり、神の名に物語を隠したりして、旧約聖書を綴っており、古事記製作者が順序通りに旧約聖書の内容を盛り込んでいるとしている。
例) ▼古事記の神話時代=旧約聖書+古事記の人の時代
   ▼「神世七代」は創生記の「天地創造」を表現し、一代で神が天地創造を行った一日を表して、
     天地創造の「七日間」が七代に対応
   ▼神武天皇→出エジプト記・民数記・申命記   綏靖天皇→ヨショア記
     威徳天皇・考昭天皇・考安天皇・考霊天皇→士師記
     孝元天皇・開化天皇・崇神天皇→サムエル記
 しかし、原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」によれば、神武天皇、考霊天皇、孝元天皇、崇神天皇ともに、トッピクス的な活躍の足跡があるので架空の天皇ではなく、旧約聖書の内容にリンクさせるのは賛同できない。 例えば、
▼邪馬台国女王卑弥呼孫の磐余彦尊婿入りによる大和朝廷成立と神武天皇即位
▼考霊天皇の第三皇子、彦狭嶋命以来、連綿として瀬戸内海の制海権を握ってきた四国の由緒
  ある名門の越智・河野・井門家系図が、松山市の井門家の好意で原田常治著「上代日本正史」
  の冒頭に記載されている。 考霊天皇は実在し、その末裔が存在している。
▼孝元天皇のクーデター擁立、孝元天皇曾孫の武内宿禰(応神天皇の父)の活躍
▼崇神天皇による多くの神社創建

(6)最古の漢詩集『懐風藻』の編者とも言われ、中国の故事に精通していたと言われる天智天皇玄孫で大友皇子曾孫の淡海三船(722~785)は、神武天皇から元正天皇までの43人の天皇(弘文と元明は除く)に漢風諡号という中国に倣った諡号を追贈したが、それぞれの諡号根拠が不明であったが、ひょっとしたら本書の説が正しいのかもしれない。
例えば、 漢風諡号       和風諡号        旧約聖書
       神武天皇    神日本磐余彦天皇     モーゼ
       崇神天皇     御真木入日子印恵命   ダビデ
 そうだとすると、淡海三船は旧約聖書・新約聖書に精通していなければならないが、恐らくヘブライ語等を自由に操る旧約・新約聖書に精通した秦氏がアドバイスしたと思われる。つまり、古代天皇の漢風諡号及び和風諡号は旧約聖書・新約聖書との合作ではないかと思われる。しかし、各天皇の和風諡号は誰が命名したのか?疑問が残る。 著者によれば、
「古事記の制作理念はこの時代にも伝わっていたと考えています。根拠脆弱ながら、現在の私の考えを整理して記載すれば次の通りです。
① 聖徳太子の時代に、「日本国からその出自を隠せ」という神示が降りる
② 基本計画を聖徳太子が立案。古事記の原型となるものを作り上げる
③ 天武天皇、持統天皇等の時代に、計画が実行に移される (※各豪族の反発は必至であり、
  ある程度、天皇の権威・権力が高まった時でないと実行できなかった)
④ 神社の祭神、豪族等が個別に持つ古文書等を、古事記の内容に合わせて抹殺、又は、変更
 よって、私は、淡海三船も古事記の制作理念を知っており、それに基づいて命名した、また、和風諡号は聖徳太子が命名したのだろうと考えています。淡海三船が漢風諡号を決定したのは、外典・漢詩に優れていたらしいですし、その才能を買われたのではないでしょうか。」 とコメントしている。

(7)誰かが古事記の理念・基本計画、原型を作り上げたのは間違いないだろう。しかし当時、帝紀・旧辞・旧約聖書・新約聖書に精通するスーパーマンは聖徳太子が該当するが、聖徳太子が実在したのか疑問であるので、ひょっとしたら著者の聖徳太子=蘇我馬子説が正しいかもしれない。
 なぜならば、大化の改新(645)時に、蘇我蝦夷が帝紀や旧辞を焼いて自害したとあるが、これは父の蘇我馬子がその保護管理していた証拠でもあり、孝元天皇曾孫の武内宿禰(応神天皇の父)末裔で当時の最大実力者である蘇我稲目・蘇我馬子の存在は無視できない。そして、古事記編纂作業に当たっては、かの聖徳太子側近の一人であったとも伝えられている秦河勝等の秦氏の活躍があったのかもしれない。
この観点から、古事記製作は2回に分かれていると思われる。
① 最大実力者で天皇家親戚の蘇我馬子が理念・基本計画を立案し、旧約聖書・新約聖書に精通
  する秦氏(秦河勝等)その他の豪族の協力を得て古事記原本を製作した。
② ところが大化の改新(645)時に、蘇我蝦夷が『帝紀』と『旧辞』、恐らく古事記原本も焼いて自害。
③ そこで、天武天皇の命で記憶力抜群の稗田阿礼が「誦習」していた『帝紀』と『旧辞』を太安万侶
  が書き記し編纂したのが復古版古事記と思われる。
 従って、元々古事記は蘇我馬子によりオリジナル製作されたが、大化の改新時の焼失により、天武天皇の命で稗田阿礼と太安万侶によって復元された復古版が現存する古事記ではないか、つまり、蘇我馬子が原本製作、稗田阿礼・太安万侶が復古版製作の「古事記2回製作説」を提案する。

(8)下記は従来の古代史の知見ではとんでもない説であり、理解できず賛同できない。
 ▼古事記に隠された新約聖書の物語において、
   ●天照大御神の正体(三人女性;倭姫命・神功皇后・大気都比売神)
 ▼古事記に隠された日本創成期の物語において、
   ●ヤマタノオロチ=イスラエルの八部族の長     ●ニニギノ命=成務天皇=事代主命
   ●スサノオ命=大国主命=大物主命=天之日矛  ●神武天皇=応神天皇
  
(9)本書の購読後に、下記のように古代日本史及び古代イスラエル史関係について、さまざまな視点から質問を行い、その時点での著者の回答を得たが、それから随分時間が経過しているので、更に調査・考察が進展して現時点では著者の見解が変わっているかもしれないが、日本古代史・古代イスラエル史ファンにとっては参考になる有意義な内容と思われるので、著者のブログ [http//kojiki.imawamukashi.com/] 「全ては古事記の中に ~旧約・新約聖書の国 日本~」を紹介する。 今後の購読者の参考にしてもらえれば幸いです。
尚、質疑応答コーナーの回答01がこの質疑応答内容だが、質問者H・Yさんは小生のことです。
 受付日:2009.06.08   回答日:2009.06.15
 質問者:山中英雄     回答者;石川 倉二(いしかわ くらじ)氏(著者)
<質疑応答;15件>
(1)神武天皇と応神天皇の同一人物説
(2)古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説
(3)旧約聖書・新約聖書の読解
(4)古事記に暗号を隠した理由・日本皇室はユダ族かエフライム族か
(5)古事記の矛盾
(6)イスラエルの民の渡来ルート
(7)旧約・新約聖書の神器のありか
(8)古文書、及び、神社祭神の改竄、末殺行為
(9)天皇の漢風諡号と和風諡号
(10)神社の位置の設定方法
(11)籠神社
(12)前方後円墳とマナの壺
(13)イスラエルの三種の神器・石上神宮の御神体の刀
(14)天皇家の伊勢神宮への不参拝
(15)皇紀元年(BC660年)

日本の徐福伝説地と秦氏(1/2) - 東国の古代史

日本の徐福伝説地と秦氏(1/2) - 東国の古代史

日本の徐福伝説地と秦氏(1/2) - 東国の古代史

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Comment

韓国にも除(ソウ)さん

>中国には系譜の確かな除氏一族がいるようですから、日本の除福伝説地の人々とDNAを比較してみたい。

〇興味深い記事でした。
 DNAですが、韓国にも除(ソウ)さんがいますね。
 日本はどうなのでしょう。
 草々
2019-08-22-09:21 * レインボー [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

京都の太秦に住む在日朝鮮人の知人は、昭和の渡来ですが、日本姓を「畑」として、秦氏の末裔のふりをしていました。(本人いわく)
古くから秦氏も雑多な人々が混じっていたようで、平安京に限って言えば、「秦嫌い」でも「秦氏」のふりして実を取る人がいたかもしれませんね(笑)

秦氏にも徐福にも興味があるので、精緻な史料にいいヒントをいただきました。ありがとうございます。
(オールポチです)
2019-09-30-23:25 * sazanamijiro [ 編集 * 投稿 ]

はじめまして^^。

こんばんわ。はじめまして・・・^^!
徐福のご記事、興味深く読ましていただきました。
 拙ブログへ度に訪問して下さって有難うございました。当方のどの記事が?が気になるところです^^? 貴家へは敷居(レベル)が高いのでお礼が随分おそくなってしまいました。わたしも素人なりに徐福の記事を書いていますが、徐福を初めて知った時、大きなカルチャーショックを受けました。中で何故に「童男童女(善男善女?)を3千人」なのか理由(わけ)が解りませんでした^^!。それについて「縄文・超古代史掲示板」へ投稿しています・・・、https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs?
(1/30)コメントありがとう御座います^^。上より下の方がおすすめです。
 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs?

https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs?
2020-01-29-22:08 * 平 素人 URL [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

徐福は日本に来てない(もしくは来ていても何の痕跡も残さい程度の影響力だった)と思う

根拠は徐福が日本に来ていたら漢字が日本で数百年は早く使われていたはず
2020-05-29-07:24 * 名無し [ 編集 * 投稿 ]

No Subject

司馬遷は、不老不死を願い詐欺師に欺される愚かな皇帝への批判を主眼において著述したもので、ほとんど作り話だと思います
仮に徐福の請願が事実だとしても中国人にとっての東の海は魑魅魍魎や神仙の住む世界(西は流砂の世界)
三国呉の軍船ですら南西諸島には到達できず、7-8世紀の遣唐使船も大半が沈没か漂流している
紀元前3世紀、まともな構造船があったかどうかもわからない時代に、船で大海に漕ぎ出すなど自殺行為でしかないでしょう
あと、日本列島で徐福伝説が各地の港に広まったのは、史記、漢書、奇異な出来事等を集めた書物を読める人たちが江戸時代の間に増えた(識字率が向上した)ことが原因だと思います
2020-06-15-12:00 * 無記名様 [ 編集 * 投稿 ]

邪馬台ヤムトェ国の場所が特定出来ぬ訳

古代の日本は、中国の東の海上に存在し、当時大陸と向き合っているとされた東海地方は、古代中国から東海三神山の地と認識されました。

秦始皇帝を騙した徐福が流布、工作させたと思われ中国の歴史書に記録される様にさせた。扶餘王族を運搬した船も秦の時代の技術でした。

中国・会稽郡から日本列島を「会稽東治の東」とせ60から70度の方向誤認を誘発させて有り、即ち、会稽郡から実際の「東」を目差して進軍した。倭国がその方向に位置すると判断したのだが、日本列島の位置を誤認したため実際の東には存在し無い、と言う事です。

呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡らせ夷州と檀州(センシュウ) へ派兵。 檀州*は大海中に存在。

檀州は船州で、参州三川と変化してます。 東海三神山の地 愛知県豊橋市です。 東海三神山は、其々蓬萊(現 鳳来寺 旧不二)山で、カルデラ付きです。方丈(現 本宮)山、瀛州(現 石巻)山です。檀州は三本松に上陸し、定住地を探しました。この地に堤を作り地名も存在してます。初の定住地は本宮と呼ばれます。立ち寄った紀の国にも定住地が出来、新宮と呼ばれてます。
2021-04-02-12:42 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

古墳時代の海

九州は大陸の玄関口と呼ばれてましたが、東海三神山に憧れ1世紀に渡来した弥生人達は、雲南省経由で、九州に入ってます。 未だ出来て無い瀬戸内海に沿って本州を東に進み倭国の大乱と呼ばれる衝突が繰り返されます。

弥生人達が東海地方に入ったのは、邪馬台国が魏の調停で、土着の民が定住を認めた後の3世紀初頭で、トゥキ(都支、現在の土岐)国が最初です。 彌奴(三野美濃)国は、倭 得玉が邪馬台国の討伐に恭順してます。

扶餘王族も夷州 、詰り琉球経由で潮の流れで、東海地方から入国してます。

大倭根子日子國玖琉命
欠史孝靈天皇の諡號
詰まり 大倭根子は(初期天皇族)日子國
に玖琉(来る)! 何処から?
逆読み…琉球(琉玖)

詳しく言えば 伊平屋島

此処から塩見公と呼ばれている御春 豊玉が、梶(舵)を取ります。
2021-04-02-20:07 * 邇波 某 [ 編集 * 投稿 ]

ペルセポリスから飛鳥へ―清張古代史をゆく (新コンパクト・シリーズ) | 松本 清張 |本 | 通販 | Amazon


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2021年4月3日に日本でレビュー済み 
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1978年、イラン革命勃発の日に著者(70歳)が居合わせた紀行・・・ゾロアスター教の遺跡探訪とペルシャと飛鳥の考察。大容量の内容なのですごいです。
ひと昔前を全然存じてないので、ウィキペディアと百科事典で、イラン近代化の流れをざっくり調べながら読みました。・・・湾岸戦争の前時代ですよ。今の経済封鎖からは想像出来ない世界でした。「火の路」にもハイカラなイメージのイランの女子大生が登場します。
少し昔の観光ぽくないイランの風景と遺跡の写真が沢山あり見応え充分です。ペルセポリスの有翼人面像とか列柱とかレリーフとか有名な写真も良いです。人の陰影が濃い。チャイハナの食事チェロケバブもネットで調べればあるものですね。
考察は読者も考えます。亀石は作りかけのグリフィン説は成程ですが、斉明女帝がジッグラドを作っていたなら冠石かなとか、飛鳥時代の奈良も想像出来ない世界でした。日本の古文書はいい加減なのか??
おまけ(?)の小冊子は同行メンバーなどのあとがきです。面白いです。
レポート

久慈力 シルクロード渡来人が建国した日本 2005

 


シルクロード渡来人が建国した日本 秦氏、蘇我氏、藤原氏は西域から来た [電子改訂版] Kindle版 



久慈力

シルクロード渡来人が建国した日本

2005



飛鳥寺にペルシャ文化の影響を指摘する先達   

 飛鳥寺について、ペルシャとの関係を指摘する学者、作家が少なくなかった。日本オリエント学会名誉会員で、京都大学教授であった故伊藤義教氏は『ペルシャ文化渡来考』(岩波書店)の中で、百済から派遣された寺工、瓦博士、仏師などは、中国の江蘇地方に渡来していたペルシャ人ではないかと指摘している。   

 この伊藤氏の説を建築家で京都造形芸術大学教授の渡辺豊和氏が『扶桑国王蘇我一族の真実──飛鳥ゾロアスター教伝来秘史』(新人物往来社)の中で支持している。氏はさらに踏み込んで、蘇我一族の持ち込んだ仏教には、ペルシャのゾロアスター教が習合していたのではないかと展開している。また、飛鳥寺の配置はササン朝ペルシャの神殿付き宮殿に近く、十字形の厳正シンメトリー(左右対称)になっていること、飛鳥寺を造るのに百済からペルシャの工人が多数送り込まれたのは、飛鳥寺を仏寺としてよりもゾロアスター神殿として造ることを蘇我氏や聖徳太子に要請されてのことだったと指摘している。


日本とイスラエルの建築材として重要視された桧   

 正倉院は、大きな三角材を井桁に組み上げた校倉造りと桧造りと高床造りで有名である。このことが宝物の湿気による汚損や虫害や外光を防いできたとされる。ここでは桧造りとシルクロードの関係について見てみよう。   

 桧は木肌が美しく、加工しやすく、腐りにくい。柱にも板にもしやすいし、掘立て柱としても土に埋めても劣化しにくい。このため寺院の建築用材や仏像の彫刻などに使われ、法隆寺や正倉院などには、千数百年もの間、朽ち果てずに残存している桧造りの建物、彫刻がある。   

 シルクロードの起点の一つであった古代イスラエルの場合はどうであったのか。神殿も社殿も香柏、すなわち杉(イスラエルの場合はレバノン杉)や桧でできている。「列王記」×には、ソロモン王がツロのヒラム王から神殿の建築材料として、香柏(桧)といとすぎの提供を受ける様子が描かれている。「ツロの王ヒラムはダビデに使者をつかわして、香柏および大工を送った。彼らはダビデのために家を建てた」と。    

 ヒラムというのは、フェニキアの町ティルスの王のことであり、ダビデやソロモンに神殿や宮殿の建築技術と建築材料を提供したことで知られている。いとすぎというのは、タチヒノキのことで、日本でも宮殿や神宮の建築には必ず桧を使う。秦氏の工人が持ち込んだものと考えられる。


サムエル記2

2:11

 11 ツロの王ヒラムは、ダビデのもとに使者を送り、杉材、大工、石工を送った。彼らはダビデのために王宮を建てた。



注連縄と法螺貝と籤の役割も聖書と同じ   

 船祭りでは、神輿船と獅子船が注連縄を張る。船の四方に斎竹を立て、注連縄を引き渡し、白い紙で作られたシデを下げる。神輿船の場合は斎竹とともに、大鉾も立てる。注連縄は標縄とも書き、不浄を排して、神の存在する聖域、清浄を示す標識だという。神社でも祭場、神門、鳥居、玉垣などに引き渡す。   

 イスラエルの場合は、注連縄は長さや大きさを測る「測り縄」からはじまったと考えられる。「列王記 下」には「わたしはサマリア(北朝イスラエルの首都)をはかった測りなわと、アハブ(前九世紀中葉のイスラエルの王)の家に用いた下げ振りをエルサレムにほどこし、人が皿をぬぐい、これをぬぐって伏せるように、エルサレムをぬぐい去る」とある。古代イスラエルでも縄を張って、神殿の柱、神器、手洗盤などを聖別したり、そのなかで儀式を行ったという。村や家の入り口や玄関に注連縄を張る風習は、イスラエルと日本との中継点の一つであったインドにもある。


列王記2

21:13


13 わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。


赤穂の地名は古代イスラエルの湊町アコからきている   




 赤穂という地名のルーツと考えられるアコという名は、イスラエル人の名前としてはよくあるそれだという。またアコという湊町も、パレスチナの古代イスラエル占領地にあった(二一頁の地図参照)。この町は地中海のハイファ湾に面した海上交通と軍事的な要衝であり、もともとはアセル族が住むフェニキアの代表的な商業都市であった。この町がダビデの征服戦によって、イスラエル王国に編入され、ソロモンの時代には戦車隊の基地、戦闘馬の調教地になった。   

 アコはセブルンの谷から流れ出るナアマン川によって潤された平野にあり、オレンジ、ザクロ、レモン、イチジクなど、パレスチナの代表的な果実類、さらには各種の野菜類が産出された。海上交通だけでなく、農業生産でも重要な位置を占めていた。

   現在でもエジプト王領、ビザンチン帝国、ペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、さらには十字軍の時代の遺跡が残っている。重要な交易拠点、軍事拠点であったために、イスラム帝国時代もしばしばこの町に対して、十字軍が発動されたのである。   

 古代イスラエルのアコと播磨地方の赤穂は、共通点が多い。イスラエル民族(秦氏)の征服地、植民地であったこと、海上交通の要衝である海岸線に面した湊町であったこと、川によって潤された肥沃な平野が広がり、豊饒な農耕地が存在したこと、戦乱、反乱などによって支配者の交替が起こったこと、文化的、宗教的な遺跡が多いことなどである。


この赤穂地方から発せられた、産業ロード、文化ロード、宗教ロードは実に多いのである。大避信仰ロード、坂越船祭りロード、赤穂ソルトロード、赤穂緞通ロード、赤穂浪士「忠臣蔵」ロード、秦河勝申楽ロード、さらには秦氏海運ロード、秦氏妙見信仰ロードなどがそれである。  


赤穂のソルトロードは列島を席巻した   

 赤穂は塩の産地、特に近世における入浜塩田発祥の地として有名である。古くは奈良時代から塩浜が造られて、塩田の開発が盛んに行われていた。古代から播磨は、瀬戸内海地方にあって製塩の一大中心地であったのである。江戸時代には赤穂藩だけで、全国の塩生産の七パーセントを占めていたという。   

 入浜製塩法は、砂浜を平らにし、海水を含んだ砂を乾かし、濃い塩水を取って煮る製法で、波も穏やかで、晴天の日が多いこの地方にふさわしいそれであった。一七世紀の赤穂において、この製法が完成され、赤穂塩田は最盛期には二〇〇町歩、年間生産高三三万石に達した。これは同じ面積の農地の石高と比較して、一〇倍以上のそれがあったという。この赤穂の製塩法は、またたくまに瀬戸内海各地に広がり、瀬戸内一〇州だけで全国の八割から九割も生産された。さらに、この製法は、九州各地や対馬、能登、仙台などにも伝播した。   

 また、赤穂で生産された塩は、その流通を秦氏系の塩問屋、奥藤家が掌握し、塩廻船によって、大阪、京都、江戸、さらには、九州、山陰、北陸、東北へも販売された。赤穂塩でまかないきれない場合は、瀬戸内海各地から坂越に塩が集められ、「岡売」(陸上ルート)で郡内、「沖売」(海上ルート)で大阪、江戸などへ販売された。塩問屋は、塩生産にかかわる燃料、俵、金融によっても、大きな利益を得た。まさに赤穂塩のソルトロードが形成されたのである。赤穂藩は、塩田の所有によって、他藩より格別に財源(税収)が豊かであった。  

 「忠臣蔵」で有名な赤穂藩主、浅野内匠頭による殿中刃傷事件の発端も、赤穂の製塩業と関係があったという説もある。赤穂家の赤穂塩と吉良家の饗庭塩とが競合関係にあり、三河国で塩の生産を行っていた幕府の高家筆頭、吉良上野介と販売面でトラブルがあったこと、吉良が浅野に赤穂製塩法の秘伝の伝授を願ったが、浅野がこれを断ったために、吉良がいろいろと意地悪をしたことが一因とする説である。    

 明治以降は、塩の専売制が敷かれて、国家による生産、流通の独占がなされ、赤穂の製塩業も衰退した。だが、現在も、輸入した天日塩にニガリを加えた「赤穂の天塩」が、坂越に本社のある赤穂化成株式会社によって生産され続けている。   

 古代のイスラエルでも日本でも、塩は撒いて邪気を祓う、清めに使われた。また、神殿や社殿への捧げ物としても塩は重要なものであった。イスラエルでは、「塩の海」死海やソドム山から岩塩を得ていたようだ。相撲の起源も古代イスラエルに求められ、シルクロードを通って、モンゴル、朝鮮半島を経由して日本に伝わり、国技になったが、この相撲でも土俵を清めるために塩が使われる。   

 ユダヤ教では、塩は食べ物に味を付け、長持ちさせるためだけでなく、「永遠の塩の契約」などと、永遠に継続する契約のことを表現する。また、「地の塩」と表現されるように、神との契約によって、人間を腐敗から救うことを示している。このため『新約聖書』でも「自分自身の内に塩を持ちなさい」とか「いつも塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」などと訓戒されている。  


赤穂浪士「忠臣蔵」ロードは日本人の忠義心をくすぐる 

  赤穂というと「忠臣蔵」を思い起こす。赤穂藩主、浅野内匠頭による吉良上野介への刃傷、浅野の切腹と赤穂藩のお家断絶、大石内蔵助ら赤穂浪士の吉良邸討ち入り、赤穂浪士四十七士の切腹という一連の事件は、当時から「仮名手本忠臣蔵」「元禄忠臣蔵」などとして浄瑠璃、歌舞伎などで数限りなく上演され、人気を博した。   

 この赤穂浪士の仇討ち、切腹については、事件発生当時から、その是非をめぐってさまざまな議論がなされたが、それは「亡君の恨みを晴らす武士の忠義」として美化され続けてきた。現在でも、「忠臣蔵」は、歌舞伎、文楽、講談、浪曲、落語、芝居、映画、テレビなどで、繰り返し繰り返し上演され、小説、戯曲、ビデオ、絵画などにも繰り返し繰り返し表現されている。日本で最も人気のある演目の一つである。    


 久保有政氏は『日本固有文明の謎はユダヤで解ける』(徳間書店)の中で、「赤穂四十七士はユダヤ人の精神と酷似している」として、次のように述べている。  

 

 「主君にあれほど忠実に仕え、最後は切腹をして果てた赤穂浪士たちの心情は、非常にユダヤ的でさえある。ユダヤには『マサダの砦』と呼ばれる史跡がある。これは一世紀にローマ帝国に対するユダヤ人の反乱軍が籠城したところだが、彼らは最後に、主君である神に忠実であるために九六〇人全員が自害して果てるのである」   


 久保氏のこの説には、しかし、無理があるだろう。赤穂藩主、浅野長矩はもともと安芸国広島藩の出身で、赤穂藩に入封したにすぎず、赤穂浪士の多くも浅野に従って赤穂に移ったにすぎない。大石内蔵助など近江国出身の浪士に秦氏がいた可能性はないことはないが、赤穂浪士とユダヤ精神を重ねるのには疑問が残る。神や主君のために、信者や家臣が犠牲となるストーリーをこれほどまでに美化することに大きな違和感を感ぜざるをえない。   

 ただし、赤穂の秦氏はもちろんのこと、全国の秦氏が、あらゆるチャンネルを使い、元禄時代から現在まで、赤穂浪士の忠義心を発揚することによって、朝廷と対立していた吉良家を徹底して卑しめるため、犠牲的日本精神を宣伝するために、これを利用したであろうことは想像にかたくない。吉良上野介には幕府の高家筆頭として、天皇や公家に対する禁制を強化して締め付けを行う役回りがあった。赤穂浪士には吉良家に反発する天皇家、藤原氏、秦氏のバックアップもあったと考えられる。